5分で読めるハプスブルク家の歴史|図で学ぶヨーロッパ最大の王朝

ヨーロッパ史を一望すれば、そこには常にハプスブルク家の影があった。王冠をかすめ取る剣ではなく、婚礼の誓いによって帝国を築き上げたこの家系は、ほかのどの王朝とも異なる道を歩んだ。

スイスの片隅に築かれた城が、やがてヨーロッパ八か国を巻き込む運命の中心地となり、650年にわたって王座に君臨し続けた。

「神聖ローマ帝国」「スペイン帝国」「オーストリア帝国」──そのいずれにもこの名が刻まれている。

この記事のポイント

スイスの辺境から帝冠へ

hapsburg castle map ハビヒツブルク城 (国境線や国名は現在のもの)

ハプスブルク家の始まりは、現在のスイス・アールガウ地方にある小さな城 (ハビヒツブルク城) にさかのぼる。

辺境の貴族だった彼らだったが、1273年にルドルフ1世が神聖ローマ皇帝に選出されたことで状況は一変した。突如、全ヨーロッパの中心に踊り出ることとなったのだ。当時の皇帝位は選挙制であり、「7人の選帝侯」によって選ばれる形式であった。

そもそも皇帝位は代々継承されるわけではなく、ハプスブルク家も一時的に地位を失うことになるが、彼らはこの制度の中で粘り強く生き延びていく。

そして、ルドルフの子孫たちは、徐々に王位の常連候補としての地位を確立していくのである。

武力よりも結婚を:婚姻政策という秘策

ハプスブルク家の婚姻政策

ハプスブルク家にとって、剣とは最後の手段だった。彼らが真に頼った武器、それは“結婚”である。

中世末期、マクシミリアン1世が「ブルゴーニュの女公マリー」と結んだ婚姻は、軍事では手に入らぬ富と領土を一夜にしてもたらした。戦場での勝利より、婚礼の契約書のほうがよほど多くの地図を書き換えた。

その子、フィリップ美公はスペイン王女フアナと結婚する。そして彼らの間に生まれたのが、後に“日の沈まぬ帝国”を築く男──カール5世である。

カール5世の支配地図

スペイン、ネーデルラント、オーストリア、そして新世界。これらの広大な領土は、血ではなく誓いによって結ばれた。

もちろん、政略結婚など王侯の常套手段だった。だがハプスブルク家ほど、これを体系的に、ほとんど機械のように活用した一族は存在しない。

彼らの哲学は一行に集約される。

Maximilian I (マクシミリアン1世)

戦いは他のものに任せよ、汝幸いなるオーストリアよ、結婚せよ。

それは皮肉でも、謙遜でもなかった。むしろ歴代のハプスブルク当主たちが、誇りと戦略を込めて掲げた「王朝の方針」だったのである。

複数王冠を束ねる帝国のかたち

カール5世の治世は、ハプスブルク家が最も広大な版図を持った瞬間であった。

彼は神聖ローマ皇帝であると同時に、スペイン王、ナポリ王、ミラノ公、ネーデルラント君主、さらには新大陸アメリカの王でもあった。

しかしこのあまりに巨大な帝国を一人の手で治めるには無理があり、彼の死後、ハプスブルク家はふたつに分裂する。 スペイン系とオーストリア系である。

ハプスブルク家の分岐 (スペインを息子へ、オーストリアを弟へと譲った)

スペイン・ハプスブルク家は17世紀後半には衰退し、1700年にカルロス2世が後継者を残さず没すると断絶した。 これがスペイン継承戦争の引き金となり、ヨーロッパ列強の均衡が大きく揺らぐ。

オーストリア家は、その後も続き、マリア・テレジアなど偉大な君主を輩出した。

多民族帝国オーストリア

19世紀初頭のハプスブルク領土 (19世紀初頭のハプスブルク領土)

一方、オーストリア・ハプスブルク家はその後も勢力を維持し、ドイツ・ハンガリー・チェコ・南スラヴなどの諸民族を束ねる「多民族帝国」の中枢となった。

ときに摩擦をはらみながらも、各民族との妥協と自治の調整によって帝国を維持した。 特にフランツ・ヨーゼフ1世は、68年にわたる治世の中でそのバランスを保ち、ウィーンを文化と外交の都へと育て上げた。

芸術、音楽、文学などもこの時代に大きく花開き、クリムトやマーラーといった名が生まれたのもこのハプスブルク文化圏である。

終焉− ヨーロッパの秩序とともに

1914年6月、ボスニアの街サライェヴォで、一発の銃声が鳴り響いた。倒れたのは、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナントとその妻ソフィー。

帝国の未来を担うはずだった人物の突然の死は、ヨーロッパ全土を巻き込む破滅の引き金となった。

こうして第一次世界大戦が勃発する。その戦火は、かつてハプスブルク家が巧みに調停してきた民族と国家の秩序を、一気に瓦解させた。

1918年──敗戦とともに、最後の皇帝カール1世は退位を余儀なくされる。スイスへの亡命。王冠を手にしたまま、王国を失った。

それはハプスブルク家にとって、650年に及ぶ「帝国としての物語」の幕切れであった。

まとめ

ハプスブルク家とは何か。

それは、13世紀に神聖ローマ皇帝ルドルフ1世の即位によって頭角を現し、以後650年にわたりヨーロッパの王座に連なった、特異な王朝である。

この家系は、しばしば偶然に助けられた。

14世紀には一時帝位を失うが、15世紀のマクシミリアン1世によるブルゴーニュ家との婚姻を皮切りに、断絶した王朝や空位となった王位を巧みに継承し、勢力を拡大した。スペイン王位、ボヘミアとハンガリーの王冠

――いずれも、軍事征服ではなく婚姻と相続を通じて獲得したものだった。

だがその過程は一枚岩ではない。

1521年、カール5世の治世においてオーストリア系とスペイン系に家系が分かれ、以後も多民族統治と宗教対立に翻弄され続けた。とりわけ三十年戦争、オスマン帝国との対峙、ナポレオン戦争などを通じ、帝国の均衡は常に揺らいでいた。

こうした中でハプスブルク家が存続しえたのは、婚姻政策だけではない。柔軟な同君連合体制、相続に関する法律(国事詔書など)、そして貴族との妥協や地域自治との共存といった、複雑かつ現実的な統治構造に支えられていたのである。

その歴史は、戦略と偶然、理念と現実の綱引きであった。

名門であると同時に、終始「継ぎ接ぎ」で成り立っていた王朝。だがその継ぎ接ぎこそが、ヨーロッパの歴史にあって、長く機能し続けたという事実は否定しがたい。

王冠は落ちたが、ハプスブルクという名は、今なお歴史研究において重要な鍵を握っている。

さらに詳しく:
📖 地図で見る、ハプスブルク家の支配域 | ヨーロッパ650年を動かした領土のすべて
📖 ハプスブルク家ってなに?初心者のためのQ&A10選
📖 図解ハプスブルク|年表でみる王朝の盛衰

参考文献
  • 『ハプスブルク家とヨーロッパ帝国の興亡』
  • 『フランツ・ヨーゼフと帝国の終わり』
  • 『第一次世界大戦とヨーロッパの再編』
  • Jean Bérenger, A History of the Habsburg Empire, 1273–1700, Longman, 1994.
  • Pieter M. Judson, The Habsburg Empire: A New History, Harvard University Press, 2016.
  • Steven Beller, The Habsburg Monarchy 1815–1918, Cambridge University Press, 2018.
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・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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