七選帝侯とは、神聖ローマ帝国でローマ王を選ぶ権利を持っていた七人の有力諸侯のことである。
神聖ローマ帝国では、皇帝位は単純な世襲ではなく、帝国内の有力諸侯による選挙を経て継承された。
その選挙を担ったのが、七人の選帝侯だった。
つまり、
皇帝になりたい人物
↓
選帝侯の支持を得る
↓
ローマ王に選出される
という仕組みである。
尚、一般には「皇帝を選ぶ」と説明されるが、厳密には選帝侯が選んだのは「ローマ王」である。時代によって皇帝位の取得方法は異なるため、ここでは読者向けに簡略化している。
1356年、皇帝カール4世は金印勅書を発布し、七人の選帝侯と皇帝選挙の手続きを法的に明確化した。
皇帝を選ぶ権利を持つ七人。
彼らの存在は、皇帝と諸侯の複雑な関係を象徴している。そしてそれは、ハプスブルク家がいかにして「選ばれる皇帝の家」になったのかを理解する鍵でもある。
この記事のポイント
七選帝侯は、皇帝ではない。それでも皇帝を選ぶ権利を持ち、帝国政治を左右する存在だった
七選帝侯はこの七人

金印勅書で定められた選帝侯は、次の七人である。
聖職諸侯
- マインツ大司教
- トリーア大司教
- ケルン大司教
世俗諸侯
- ボヘミア王
- プファルツ伯
- ザクセン公
- ブランデンブルク辺境伯
つまり、3人の大司教+4人の世俗諸侯=7人である。
彼らは単なる皇帝選挙の「投票係」ではない。それぞれが帝国内に強大な領地と政治的基盤を持つ有力諸侯であり、そのうえで皇帝選挙に参加する特別な権利を持っていた。
ちなみに、この「七人」という構成は1356年の金印勅書によるもの。その後、戦争や領地の継承などによって選帝侯の構成や人数は変化していく。
七人の「票」が持つ力

皇帝になりたい者にとって、選帝侯の支持は欠かせなかった。
七人にはそれぞれ一票があり、金印勅書では過半数による決定が定められていた。
そのため皇帝選挙では、候補者と選帝侯のあいだで政治的な交渉が繰り広げられた。
選帝侯は、自分たちの権利や利益を守るために候補者と交渉する。一方、皇帝候補は支持を得るために、政治的な約束や資金提供などを行った。
※注:1519年のカール5世の選挙では、選帝侯側への巨額の資金提供が行われたことが知られている。ただし、選挙結果を「賄賂だけ」で説明するのは単純化しすぎである。
なかでもマインツ大司教は、皇帝選挙を招集する役割を担っていた。
そのため選帝侯は、皇帝の単なる「部下」ではなく、帝国政治を左右する独立した権力者だったのである。
ハプスブルク家との関係
ここで、ハプスブルク家にとって重要な問題がある。
1356年に定められた七選帝侯のなかに、オーストリアを本拠とするハプスブルク家は含まれていなかった。
つまり、ハプスブルク家の当主だからといって、自動的に皇帝になれるわけではない。皇帝位を得るには、選帝侯たちの支持を取り付ける必要があった。
ハプスブルク家は、領地の拡大、婚姻、軍事力、財力、諸侯との政治的な交渉を重ねながら、帝国内での影響力を強めていった。
そして1440年、フリードリヒ3世がローマ王に選出される。1452年にはローマで皇帝として戴冠し、その後、息子マクシミリアン1世へと続く。
こうしてハプスブルク家は、「選挙で選ばれる皇帝位」を、まるで世襲するかのように維持する王朝へと成長していく。
カール5世をめぐる皇帝選挙
その仕組みがよくわかるのが、1519年の皇帝選挙である。このとき、ハプスブルク家のカールとフランス王フランソワ1世が皇帝位を争った。
カールはすでに広大な領地を相続していた。しかし、それだけでは皇帝にはなれない。
フランソワ1世も選帝侯の支持を得ようと働きかけ、両者のあいだで激しい選挙戦が繰り広げられた。最終的に選ばれたのはカール。
彼こそが、後にカール5世として知られる皇帝である。
巨大な領地を持つハプスブルク家の君主でさえ、皇帝になるには「選ばれる」必要があった。ここに、神聖ローマ帝国の大きな特徴がある。
皇帝は帝国の頂点にいる。
しかし、その皇帝を選ぶ者もまた、強大な権力を持っていた。
選帝侯制度の終焉
選帝侯の構成は、その後も時代とともに変化した。
とくに1803年の帝国再編では、選帝侯制度も大きく変更される。
そして1806年、ナポレオンによるヨーロッパ秩序の再編のなかで、神聖ローマ帝国そのものが解体された。最後の皇帝フランツ2世は、1806年8月6日に神聖ローマ皇帝位を放棄。
こうして選帝侯制度も、その役割を終えた。
まとめ
七選帝侯とは、神聖ローマ帝国で皇帝選挙を担った七人の有力諸侯である。
彼らは皇帝ではない。それでも、皇帝になる人物を選ぶ権利を持っていた。
そしてハプスブルク家もまた、その「選ばれる側」として、選帝侯との関係を築きながら皇帝位を確保していった。
神聖ローマ帝国を理解する鍵は、皇帝だけを見ることではない。誰が皇帝を選び、誰がその支持を得たのか。
そこに目を向けると、ハプスブルク家がなぜ何百年にもわたって帝国の中心に居続けたのかが見えてくる。
その歴史をたどるうえで重要な皇帝が、フリードリヒ3世である。
▶なぜフリードリヒ3世は何もせず勝てたのか?“遅すぎる皇帝”がヨーロッパを変えた
さらに詳しく:
📖 神に選ばれし皇帝を決めるのは誰か?【金印勅書と選帝侯制度】
📖 紙切れ一枚で帝国を揺るがす!?ルドルフ4世の大特許状
参考文献
- Friedrich Heer, The Holy Roman Empire, 1967
- Peter H. Wilson, Heart of Europe: A History of the Holy Roman Empire, 2016
- Thomas Brady Jr., German Histories in the Age of Reformations, 2009
- Klaus Oschema, Les Princes électeurs du Saint-Empire: Histoire d’une fonction (13e-17e siècles), 2021
※ 後にハプスブルク家はボヘミア王位を獲得するため、ボヘミア王として選帝侯の一席を持つことになる。「ハプスブルク家は最後まで選帝侯ではなかった」という意味ではない。
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
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