ヴェストファーレン条約とは?なぜ帝国は衰え、フランスが覇者となったのか

648年のヴェストファーレン(ウェストファリア)条約の交渉風景を描いた図。三十年戦争を終結させ、ヨーロッパの政治秩序を再編した和平会議 Illustration of the Peace of Westphalia (1648), depicting the negotiations that ended the Thirty Years’ War and reshaped the political order of Europe.” 戦争・外交・条約
© Habsburg-Hyakka.com

1648年10月24日、西ドイツの小都市ミュンスターとオスナブリュックに、各国の使節が集った。三十年戦争――

ヨーロッパを焦土と化した戦いの終わりを告げるためである。 

荒れ果てた大地。飢えた民衆。焼け落ちた都市。この和平が成立しなければ、大陸に明日は訪れない。

だが、交渉の場に座ったのはただの外交官ではなかった。そこには、帝国の未来を握る皇帝の苦悩と、フランスの野望、そして若き女王の影があった。

この記事のポイント
  • 1648年、ヴェストファーレン条約で神聖ローマ皇帝の権限が縮小される
  • ハプスブルク家の求心力が弱まり、帝国は分権化の時代へ移行する
  • フランスが外交と軍事で優位に立ち、覇権争いの主導権を握り始める



皇帝フェルディナント3世の葛藤

出典:Wikimedia Commons

神聖ローマ皇帝フェルディナント3世は、すでに疲弊した帝国を前にしていた。

かつて「信仰を守る」と戦争を続けた父フェルディナント2世とは違い、彼は現実を直視していた。

「戦争を終わらせねば、帝国は崩壊する」

しかし同時に、和平は皇帝の権威を削ぐことを意味する。彼は「皇帝としての誇り」と「戦争終結」という二つの相反する使命の間で揺れていた。

フランス――枢機卿の野望

フランスから派遣されたのは、リシュリュー枢機卿の遺志を継ぐ「ジュール・マザラン」だった。

彼にとって和平は、フランスをヨーロッパの覇者に押し上げる手段だった。

「ハプスブルク家の力を抑え込む。それがフランスの未来だ」

交渉の背後には冷徹な計算があった。オーストリアとスペインのハプスブルク家を弱体化させる――その一点において、フランスは妥協する気はなかった。

若き女王クリスティーナの名のもとに

クリスティーナの肖像画 

北欧のスウェーデンからは、まだ20代の若き女王クリスティーナの名のもとに大使が送られた。

交渉を主導したのは宰相オクセンシェルナ。だが女王の存在は戦勝国スウェーデンの象徴であり、和平における正統性を担保した。

スウェーデンはポメラニアを得て、「帝国議会での発言権」を確保する。小国に過ぎなかった北欧の王国は、この和平によって大国の一角に食い込んだのである。



ヴェストファーレン条約の署名

1609年、スペインハプスブルク家領から北ネーデルランドが事実上独立。本図は、1648年ウェストファリア条約の締結時におけるハプスブルク家領を、一次史料にもとづいて再構成したものである。

灰色の線分は神聖ローマ帝国の国境であり、オーストリア系ハプスブルク家が帝国内でどの位置にあったかを理解しやすくしている。

Habsburg Territories at the Signing of the Peace of Westphalia (1648) ウエストファリア条約締結時 (1648年) のハプスブルク家領 (地図)

灰色の線分は、神聖ローマ帝国の領域境界を示す © Habsburg-Hyakka.com

ウェストファリア条約によって、ハプスブルク家はオランダ独立の正式承認や、帝国内での権限後退といった大きな変化を迎えることとなった。本図は、そうした変化が起きる直前の姿を示す基準図として位置づけられる。

5年にわたる交渉の末、1648年10月24日、ついに条約が署名された。その内容は歴史を大きく変えるものだった。

  • 諸侯は皇帝に従うだけでなく、独自に外交を行う権利を認められた
  • カルヴァン派を含む宗教の平等が承認された
  • フランスはアルザスを獲得し、スウェーデンはポメラニアと議席を得た
  • スイスとオランダの独立が正式に承認された

皇帝フェルディナント3世は、静かに筆を置いた。それは帝国の統一的権威を手放すことを意味していた。

「帝国の黄昏」と「新たな秩序」

ヴェストファーレン条約は、神聖ローマ帝国にとって黄昏 であった。皇帝の権威は弱まり、帝国は諸侯国家の集合体へと変わる。

一方でフランスとスウェーデンは勝者として台頭した。

フランスは「覇権国家」への道を歩み、スウェーデンは北欧の大国として国際社会に存在感を示した。

そして、この条約は 「主権国家体制」 の始まりとして、近代ヨーロッパの秩序を形づくる基盤となった。



まとめ

ヴェストファーレン条約――

それは三十年戦争を終わらせただけではない。皇帝の権威を弱め、帝国を“諸侯の集まり”へと変えてしまった。

一方でフランスとスウェーデンは勝者となり、ヨーロッパの秩序は塗り替えられた。

戦争に疲れ果てた大陸に、ようやく訪れた「平和」。

だがその平和は、決して永遠ではなかった。新たな脅威は、帝国の東の地平から静かに迫りつつあったのである。その名は、オスマン帝国。▶︎📖 第二次ウィーン包囲とは?帝都はなぜ滅びず、いかにして輝く都市となったのか

さらに詳しく:📖 [三十年戦争とは?] 宗教戦争の仮面をかぶった国家間戦争

※ この地図は複数の歴史資料をもとに再構成したもので、地域によっては境界線に若干の差異がある可能性があります。(This map is a reconstruction based on various historical sources; some borders may slightly differ from other references.)



参考文献
  • Peter H. Wilson, The Thirty Years War: Europe’s Tragedy, Harvard University Press, 2009.
  • C.V. Wedgwood, The Thirty Years War, New York Review Books, 2005.
  • Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire: Vol. II, 1648–1806, Oxford University Press, 2012.
  • Geoffrey Parker, The Army of Flanders and the Spanish Road, Cambridge University Press, 1972.
  • 岩波講座『世界歴史 16』より「ハプスブルク帝国の構造転換」
  • ユーザー提供資料:『神聖ローマ帝国 800年の歴史』『カール五世の手紙』『スペイン・ハプスブルク』などの翻訳・要約
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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