肖像画で辿るメアリー・ステュアート―栄華を極めた女王の転落

編集コラム

メアリー・ステュアートの肖像画を見ていると、不思議な気持ちになります。そこに描かれているのは、宝石を身につけ、豪華な衣装をまとった美しい王妃です。

けれど、この女性の最期を私たちは知っています。

1587年、メアリーはイングランドのフォザリンゲイ城で処刑されました。しかも、その最期は「三度の斧」という強烈な逸話とともに語り継がれています。

では、この華やかな女性は、いったいどうして処刑台へ向かうことになったのでしょうか。

私はメアリー・ステュアートの肖像画を年代順に追っていくと、彼女の人生の「落差」がとても印象的だと感じました。

フランス王妃として華やかな宮廷に生きた少女。スコットランドへ戻り、女王として政治の中心に立った女性。結婚と恋愛、夫の殺害をめぐる疑惑、そして新たな結婚。

そこから王位を失い、イングランドで長い幽閉生活を送り、最後には処刑される。

「悲劇の女王」と呼ばれるには、あまりにも劇的な人生です。今回は、そんなメアリーの人生を肖像画とともにたどってみます。

フランス宮廷で育った少女

メアリー・ステュアートは1542年、スコットランド王ジェームズ5世の娘として生まれました。

生後わずか6日で父を亡くし、スコットランド女王となります。しかし、幼い女王がすぐに自国を治めたわけではありません。

メアリーは幼くしてフランスへ送られ、フランス王アンリ2世とカトリーヌ・ド・メディシスの宮廷で育ちました。そして1558年、16歳でフランス王太子フランソワと結婚。

翌1559年、フランソワがフランス王フランソワ2世として即位すると、メアリーはフランス王妃となりました。

まだ10代の少女が、スコットランド女王であるだけでなく、フランス王妃にもなったのです。この時期の肖像画を見ると、後に「悲劇の女王」と呼ばれる女性とは思えないほど華やかです。

メアリー・スチュアートの到着 ウジェーヌ・イザベイ(1803-1886) (出典:Wikimedia Commons)

黒い衣装や宝石、王妃としての威厳。

その姿からは、これから彼女の人生が大きく揺らいでいくことなど想像できません。しかし、1560年に夫フランソワ2世が亡くなると、メアリーのフランスでの立場は大きく変わります。

フランス王妃ではなくなったメアリーは、スコットランドへ戻ることになりました。ここから、彼女の人生の第二幕が始まります。

スコットランド女王として戻ったメアリー

フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画)

フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画)出典:Wikimedia Commons

1561年、メアリーはスコットランドへ戻りました。

ここで待っていたのは、フランス宮廷とはまったく異なる世界でした。スコットランドでは宗教改革が進み、プロテスタント勢力が強くなっていました。

一方、メアリーはカトリックの女王です。

しかも彼女には、イングランド王位継承権という大きな政治的問題もありました。メアリーの祖母マーガレット・テューダーは、イングランド王ヘンリー7世の娘です。

©️ Habsburg-Hyakka.com (二次利用不可 – 転載する際はリンク付け願います)

つまりメアリー自身も、テューダー家につながる王位継承候補でした。

彼女は単なるスコットランドの女王ではありません。イングランドにとっても、無視できない存在だったのです。

女王の結婚とスキャンダル

そして、メアリーの人生をさらに大きく動かしたのが、結婚でした。

1565年、メアリーはヘンリー・ステュアート、通称ダーンリー卿と結婚します。二人の間には翌年、長男ジェームズが生まれました。

©️ Habsburg-Hyakka.com (二次利用不可 – 転載する際はリンク付け願います)

しかし、夫婦関係は次第に悪化します。

1566年には、メアリーの側近デイヴィッド・リッツィオが、ダーンリーらによってメアリーの目の前で殺害されました。

そして翌1567年、今度はダーンリー自身が殺害されます。この事件をめぐって、メアリーには夫殺害への関与が疑われるようになりました。

そして、その疑惑をさらに強めることになったのが、ダーンリー殺害からわずか数か月後の出来事です。メアリーは、ダーンリー殺害の中心人物と疑われていたボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと結婚しました。

この結婚は、スコットランド貴族の強い反発を招きます。メアリーは反乱軍に敗れ、退位を迫られました。

ここで、フランス王妃として華やかな宮廷にいた少女の姿から、わずか数年で大きく変わった女王の姿が浮かび上がります。

1559年にヘンリー2世が亡くなった際に女王が依頼したもの

メアリー (1559年にヘンリー2世が亡くなった際に女王が依頼したものとされる) 出典:Wikimedia Commons

もちろん、メアリーがダーンリー殺害にどこまで関与していたのかについては、現在も議論があります。

それでも当時の人々にとって、夫の殺害と、その直後のボスウェルとの結婚は、メアリーへの疑念を決定的に強める出来事でした。

女王から、逃亡者へ

1567年、メアリーは退位させられます。一度は幽閉先から脱出し、王位を取り戻そうとしました。

しかし、ラングサイドの戦いで敗北。

翌1568年、メアリーはスコットランドを離れ、イングランドへ逃れます。

向かった先は、エリザベス1世のもとでした。ここが、メアリーの人生でも非常に皮肉なところです。助けを求めた相手は、かつて自分と同じ王家の血を引く女性でした。

しかしエリザベスにとって、メアリーは簡単に助けられる存在ではありません。

メアリーにはイングランド王位継承権があり、カトリック勢力の一部からはエリザベスに代わる女王として支持される可能性があったからです。

こうしてメアリーは、イングランドで自由を得ることなく、長い幽閉生活を送ることになります。

エリザベス1世との長い対立

メアリーはイングランドで約19年間、さまざまな場所に移されながら拘束されました。

その間、メアリーを支持する人々による陰謀も起こります。そして1586年、彼女の運命を決定的に変える事件が起きました。

バビントン陰謀事件です。アンソニー・バビントンらは、エリザベス1世の暗殺を計画しました。

問題となったのは、メアリーと外部の支持者との間で交わされていた暗号文でした。イングランド政府はその通信を傍受し、暗号を解読します。

そこには、エリザベス暗殺についてのやり取りが含まれていました。メアリーは陰謀への関与を否定しましたが、裁判で有罪判決を受けます。

そして1587年2月8日。メアリー・ステュアートは、処刑台へ向かいました。

栄華の肖像画から、処刑台へ

ここで、もう一度メアリーの肖像画を見てみます。

若い頃の肖像画に描かれているのは、フランス王妃として生きる美しい女性です。

メアリー・スチュアート (1558年から1560年の間) 出典:Wikimedia Commons

宝石を身につけ、豪華な衣装をまとい、王家の一員としての威厳を見せています。ところが、晩年の肖像画に目を向けると、そこにはまた違った女性が現れます。

長い幽閉生活を送り、人生の自由を奪われた女王。

囚われの身となったメアリー (出典:Wikimedia Commons)

そして、最後には処刑された女性です。

処刑されるメアリー・ステュアート (出典:Wikimedia Commons)

私はこの二つの肖像画を並べてみたとき、メアリーの人生の「落差」に改めて驚きました。もちろん、肖像画だけを見ても、その人の人生のすべてが分かるわけではありません。

けれど、その人物がどんな人生を歩んだのかを知ってから見ると、同じ肖像画でもまったく違って見えてきます。

おわりに

メアリー・ステュアートの人生を肖像画からたどってみると、彼女が最初から「悲劇の女王」だったわけではないことが分かります。

幼くしてスコットランド女王となり、フランス王妃として栄華を極めたメアリー。 しかしスコットランドへ戻ると、結婚や夫の殺害をめぐる疑惑、貴族との対立によって、次第に立場を失っていきます。

王位を追われ、イングランドへ逃れた先で待っていたのは、長い幽閉生活でした。

そして最後には、エリザベス1世暗殺計画への関与を問われ、処刑台へ向かうことになります。 華やかな王妃から、幽閉された女王へ。そして、最後には処刑された「悲劇の女王」へ。

そして、さらにおもしろいのは、メアリーの物語がそこで終わらなかったことです。

1587年、メアリーが処刑されたとき、息子ジェームズ6世はまだスコットランド王でした。それから16年後の1603年。

エリザベス1世が亡くなると、ジェームズはイングランド王ジェームズ1世として即位します。つまり、メアリーを処刑したエリザベス1世の王位を、そのメアリーの息子が継いだのです。

母親の隣に立つジェームズ(右)実際には、彼がまだ赤ん坊の頃に両親は離れ離れになった (出典:Wikimedia Commons)

母を処刑した女王の後継者となったのが、その息子だった。これほど皮肉な王位継承もありません。メアリー自身がイングランド王位につくことはありませんでした。

けれど、その血統は息子ジェームズを通してイングランド王位へとつながっていきました。

肖像画の中にいるメアリーは、まだ自分の最期を知りません。

けれど、その一枚の肖像画の先には、処刑という悲劇だけではなく、死後16年を経て、息子が自分を処刑した女王の王位を継ぐという、歴史の大きな逆転が待っていました。

だからこそ、メアリー・ステュアートを「悲劇の女王」という一言だけで終わらせるのは、少しもったいないのかもしれません。栄華を極めた王妃、スキャンダルと政治の渦中にいた女王。

王位を失い、長い幽閉生活を送り、最後には処刑された女性。そして、その死後も息子を通して王統をつないだ母。 肖像画を一枚ずつたどっていくと、そんなメアリーの人生が、少しずつ違った姿で見えてきます。▶︎ メアリー・スチュアートの処刑―なぜ斧は三度振り下ろされたのか?

参考文献

注釈「三度の斧」※メアリーの処刑については、処刑当日の記録や関係者による記録が残されています。「三度の斧」という逸話については、後世の伝承と同時代記録を区別して確認する必要があります。

 

 

この記事を書いた人 Author
舟島 (Funejima)

国際的な業務に携わり10年以上。

英語などを用いた資料調査・翻訳に対応。
一次史料、海外の学術論文・専門書などをもとに複数資料を照合し、歴史的事実を検証したうえで執筆しています。

History makes a bigger world.

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