メアリー・スチュアートの処刑―なぜ斧は三度振り下ろされたのか?

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メアリー・ステュアートの処刑 (出典: Wikimedia Commons)

1587年2月8日、フォザリンゲイ城。

処刑台に立ったのは、罪人ではなく、かつてスコットランドの王冠を戴いていた一人の女王だった。

スコットランド女王メアリー・ステュアート。

処刑人が斧を振り下ろす。

一度。しかし、首は完全には断たれなかった。二度目の一撃。それでも終わらない。

そして三度目の斧によって、ようやく処刑が完了したと伝えられている。

この記事のポイント

1587年の処刑については、当時の関係者による記録が残されており、英国図書館にも処刑当日の詳細な報告書が保存されている。

なぜ女王は処刑された

では、なぜメアリーは、ここまでして処刑されなければならなかったのだろうか。

そもそも彼女は、処刑される側の人間として生まれたわけではない。1542年、メアリーはスコットランド王ジェームズ5世の娘として生まれた。

生後わずか6日で父を亡くし、王位を継承する。

つまり彼女は、物心つくより前から「処刑する側」に近い、王冠を戴く側の人間だった。

しかも、彼女の王位継承権はスコットランドだけにとどまらなかった。

母方からテューダー家につながるメアリーは、イングランド王ヘンリー7世の長女マーガレット・テューダーの孫にあたる。

一方、イングランド女王エリザベス1世はヘンリー8世の娘だった。

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二人はともにテューダー家の血を引き、イングランド王位をめぐって競合しうる立場にあった。

さらに、メアリーはカトリック、エリザベスはプロテスタント。王位継承と宗教対立。

二つの問題が重なったことで、メアリーは単なる隣国の女王ではなく、エリザベスの王位を脅かしかねない存在になっていった。

夫の殺害と再婚

スコットランドに戻ったメアリーの人生を、大きく変えることになったのが、二人目の夫ダーンリー卿との結婚だった。

1565年、メアリーはダーンリーと結婚する。ダーンリーはメアリーと同じカトリックで、王位継承にもつながる有力な人物だった。

しかし、二人の結婚生活は次第に険悪になっていく。

ダーンリーは、自分が王でありながら政治的な実権を持てないことに不満を募らせ、メアリーの側近ダヴィッド・リッツィオにも強い嫉妬を抱くようになる。

そして1566年3月、事件が起こる。

妊娠中だったメアリーが宮殿でリッツィオと食事をしているところへ、ダーンリーと反乱貴族たちが押し入り、メアリーの目の前でリッツィオを刺殺したのだ。

リッチオ殺害事件(19世紀、ウィリアム・アラン画)出典:Wikimedia Commons

しかし、これで終わらなかった。

翌年、今度はダーンリー自身が殺害される。1567年2月、ダーンリーが滞在していたカーク・オ・フィールドの建物が爆破され、遺体が発見された。

ところが、ダーンリーは爆発だけで死亡したのではなく、遺体には絞殺された可能性を示す痕跡もあったとされ、事件は大きな謎を残した。

追い詰められたメアリー

そして、ここからメアリーの運命が決定的に暗転する。

ダーンリー殺害の有力な容疑者として名前が挙がったのが、ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンだった。

ところが、ボスウェルは裁判にかけられたものの無罪となり、そのわずか数週間後、メアリーはボスウェルとともに行動するようになる。

そして1567年5月、メアリーはダーンリー殺害への関与を疑われていたボスウェルと結婚した。これが、決定的だった。

「夫を殺した疑いのある男と、なぜ結婚するのか?」この結婚はスコットランド貴族の強い反発を招き、メアリーへの支持は急速に失われていった。

反乱した貴族たちとの戦いに敗れたメアリーは捕らえられ、1567年、わずか24歳で退位を迫られる。

その後、一度は幽閉先のロッホ・リーヴン城から脱出する。しかし、再び敗北。

そして1568年5月、メアリーはスコットランドを離れ、国境を越えてイングランドへ逃れた。

助けを求めた相手は、かつてフランスでともに過ごした親族、イングランド女王エリザベス1世だった。

囚われの身となって

しかし、メアリーを待っていたのは救済ではなかった。

エリザベスは、イングランド王位を主張するメアリーをそのまま自由にすることはできず、結果としてメアリーは19年間にわたるイングランドでの幽閉生活へ入ることになる。

メアリーには、イングランド王位の継承権があった。しかもメアリーはカトリック、一方のエリザベスはプロテスタントだった。

メアリーを支持するカトリック勢力が、彼女をイングランド王位につけようとする可能性は十分にあった。

そのためエリザベスは、メアリーを処刑することも、自由にすることもできないまま、長期間にわたって幽閉した。

女王の暗殺計画

しかし、メアリーをめぐる陰謀は実際に起こる。

1586年、アンソニー・バビントンらがエリザベス1世の暗殺を計画した。

そして、この計画にメアリーが関わっていたことを示す証拠として使われたのが、彼女と外部の支持者との間で交わされていた暗号文だった。

イングランド政府はこの通信を傍受し、暗号を解読する。そこには、エリザベス暗殺についてのやり取りが含まれていた。

メアリーは陰謀への関与を否定したが、1586年10月、裁判で有罪判決を受ける。そして翌年、メアリーは処刑台へ向かうことになる。

議会によって最近承認された死刑判決を受ける場面(1809年) 出典:Wikimedia Commons

メアリーの処刑

1587年2月8日。

フォザリンゲイ城の大広間に、処刑台が設けられた。メアリーは黒い衣服を身につけ、その上に赤い下着を着ていたと伝えられている。

処刑されようとしているスコットランド女王メアリー(1916年)出典:Wikimedia Commons

そして、いよいよ斧が振り下ろされた。

一度目の一撃では、首を完全に断つことができなかった。処刑人はもう一度、斧を振り下ろす。

それでも首は完全には切断されず、三度目の一撃でようやく斬首が完了した。

つまり、「三度の斧」の理由は、何か特別な儀式だったからでも、メアリーが三度も蘇ったからでもない。

斧による斬首が一度では成功せず、二度、三度と刃を入れる必要があったためである。

当時の斬首刑は、現代のように精密な処刑器具を使うものではなかった。

処刑人が斧を振り下ろし、一撃で首を断つことが求められた。

しかし、この日の処刑ではそれがうまくいかなかった。そのため、「三度の斧」は、メアリーの最期を象徴する凄惨な場面として後世に残ることになった。

そして、この処刑にはもう一つ、印象的な出来事があった。

処刑人が斬首された頭部を持ち上げたところ、頭を覆っていた髪が外れ、かつらだけが処刑人の手に残ったと伝えられている。

長い幽閉生活を送ったメアリーの髪は、すでに白くなっていたという。44歳だったメアリーの最期は、こうして多くの人々の記憶に刻まれた。

処刑されても尚

メアリーの死は、単なる一人の女王の処刑ではなかった。彼女がカトリックの王位継承候補だったことから、その死はヨーロッパ各地で大きな関心を集めた。

処刑の知らせは印刷物や版画によって広まり、メアリーの姿や最期はさまざまな形で伝えられていく。

カトリック側では、彼女を信仰のために命を奪われた「殉教者」として見る動きも生まれた。

一方、イングランド側では、王国の安全を脅かす陰謀に関わった人物として語られた。

同じ一人の女王の死が、見る側によってまったく違う意味を持ったのである。

そして、ここからメアリー・ステュアートは、単なる歴史上の人物ではなくなっていく。「悲劇の女王」というイメージが、少しずつ形づくられていったのである。

おわりに

「悲劇の女王」は、どのように生まれたのか。

現在、メアリー・ステュアートと聞くと、「美貌の女王」「悲劇の女王」というイメージを思い浮かべる人も多い。

フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画)

フランスを去るメアリー(19世紀、ロバート・ヘルトマン画)出典:Wikimedia Commons

彼女は、王位継承と宗教対立が交差する16世紀ヨーロッパのなかで生きた女王だった。

そして、その死さえも、政治と宗教と物語のなかに取り込まれていったのである。

メアリー・ステュアートの最期を象徴する「三度の斧」。その一撃一撃の背後には、一人の女王の人生だけではなく、イングランドとスコットランド、そしてヨーロッパを揺さぶった王位継承と宗教対立があった。

だからこそ、彼女の処刑は400年以上たった今も、私たちの記憶に残り続けている。

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参考文献
  • Antonia Fraser, Mary Queen of Scots, 1969John Guy,
  • Queen of Scots: The True Life of Mary Stuart, 2004
  • 高橋裕子『エリザベス女王とスコットランド女王メアリ』講談社現代新書, 1995
  • G.R. Elton, England Under the Tudors, 1955
  • Calendar of State Papers, Scotland and Elizabethan Series(英国国立公文書館)
  • Catholic Encyclopedia, 1913 edition, New Advent

注釈「三度の斧」※メアリーの処刑については、処刑当日の記録や関係者による記録が残されています。「三度の斧」という逸話については、後世の伝承と同時代記録を区別して確認する必要があります。

・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
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