「エリザベス1世を産んだ悲劇の王妃の物語」。
そんな言葉から始まる映画がある。『ブーリン家の姉妹』である。
ヘンリー8世に愛された二人の姉妹、メアリーとアン。王の寵愛をめぐる姉妹の物語。
そして、その先に待っていたのは、王妃となったアン・ブーリンの悲劇的な最期だった。
華やかな宮廷、王の愛。姉妹の葛藤、そして処刑。あまりにも劇的な人生である。
けれど、実際のアン・ブーリンの人生を辿ってみると、映画とは少し違った姿が見えてくる。
たとえば、ブーリン家の姉妹である。映画ではメアリーがアンの妹として描かれているが、史実ではメアリーのほうが年長だったとする説が有力である。
ただし、二人の正確な出生年については確実な記録が残っておらず、年齢差については議論がある。
二人が生まれたブーリン家は、イングランドの宮廷で徐々に存在感を高めていた。
父トマス・ブーリンは外交官として各国の宮廷を行き来し、娘たちもまた、当時の王侯貴族の世界に近い場所で育つことになる。
やがて姉妹の人生は、イングランド王ヘンリー8世と交わっていく。そして、その出会いがイングランドの歴史そのものを大きく動かしていくことになる。
ブーリン家の姉妹

ブーリン家の姉妹 (左)メアリー (右)アン (Public Domain)
先に宮廷で注目を集めたのは、妹のアンではなく、姉のメアリーだった。メアリーはヘンリー8世の愛人となったことが知られている。
その後、アンも宮廷に戻り、ヘンリー8世の最初の王妃、キャサリン・オブ・アラゴンに仕えることになる。アンがフランスで過ごした経験は、彼女の人生に大きな影響を与えた。
フランス宮廷の文化やファッションに触れ、洗練された宮廷女性として成長したアンは、やがてイングランド宮廷でもひときわ目を引く存在となっていく。
ヘンリー8世がアンに惹かれていった時期については諸説あるが、1520年代半ばには二人の関係が大きく動き始めていたと考えられている。
しかし、ヘンリー8世にはすでに王妃がいた。
キャサリン・オブ・アラゴンである。ここから、アン・ブーリンの物語は、ハプスブルク家の歴史ともつながっていく。
キャサリン・オブ・アラゴンという王妃
キャサリン・オブ・アラゴンは、スペイン王フェルナンド2世とイサベル1世の娘である。

そして、彼女の姉にはフアナがいた。そのフアナの息子が、のちに神聖ローマ皇帝となるカール5世である。
つまりキャサリンは、カール5世の叔母にあたる。

王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)Public Domain
イングランド王の最初の王妃が、スペイン王家を通じてハプスブルク家ともつながっていたのである。
さらに、この血縁関係は単なる家系図上のつながりではなかった。
カール5世は当時、ヨーロッパ最大級の勢力を持つ君主の一人であり、キャサリンの結婚問題は国際政治とも深く関わっていた。
ヘンリー8世がキャサリンとの結婚を解消しようとしたとき、ローマ教皇の判断にはカール5世の存在も影響を及ぼしていた。
こうして、イングランド王の離婚問題は、いつの間にかヨーロッパの王朝政治へと広がっていく。
ヘンリー8世の思惑
ヘンリー8世とキャサリンの間には、王女メアリーが生まれていた。
しかし、王が求めていたのは、王位を継ぐ男子であった。
キャサリンとの結婚を続けながら、アンとの関係を深めていくことになったヘンリー8世は、ついにキャサリンとの婚姻を解消し、アンを王妃に迎えようとする。
だが、ローマ教皇は簡単には認めなかった。
そして、この問題はやがて、イングランドとローマ教皇庁との関係そのものを揺るがすことになる。1533年、ヘンリー8世とアンは結婚し、アンはイングランド王妃となった。
同年6月、アンは戴冠式を行う。
王がこれほどまでに望んだ女性が、ついに王妃となったのである。しかし、アンに与えられた時間は長くなかった。
エリザベス、誕生
1533年9月7日。アンは娘を出産した。エリザベスである。
のちのエリザベス1世だ。
王が望んでいた男子ではなかった。それでも、この小さな王女が、後にイングランド史を代表する女王となることを、この時点では誰も知らなかった。
アンにとって、エリザベスの誕生は大きな意味を持つものだった。しかし、王妃としてのアンには、さらに男子を産むことが期待されていた。
その期待に応えることができなかったことは、やがてアンの立場を不安定にしていく。
王妃から、囚人へ
1536年、アンの人生は急激に暗転する。
彼女は王妃の座から引きずり下ろされ、姦通や反逆、さらに弟ジョージとの近親相姦などの罪に問われることになる。
5月、アンは裁判にかけられ、有罪判決を受けた。そして1536年5月19日、ロンドン塔で処刑された。

ロンドン塔のアン (Public Domain)
王妃となってから、わずか3年ほどしか経っていなかった。
アンは30代半ばだったと考えられている。アンにかけられた罪については、現在も歴史家の間で議論が続いている。
少なくとも、彼女に対する告発や裁判の経緯には大きな疑問が残されており、後世には冤罪だったとする見方も強い。
ただし、「アンは完全に無実だった」と断定するよりも、当時の政治状況と裁判の不透明さを踏まえて考えるほうが適切である。
アンの処刑は、ヘンリー8世が王妃を処刑したという点でも、イングランド史における極めて異例の出来事だった。
そして、アンが処刑されてから22年後。歴史は、思いもよらない形で彼女の娘へとつながっていく。
アンの娘、エリザベス1世
1558年、エリザベスがイングランド女王となった。
母アン・ブーリンは、かつて王妃として宮廷の中心にいた。しかし、その人生は処刑によって終わっている。
その娘が、今度は自ら王冠を手にしたのである。
エリザベス1世の治世は、後に「エリザベス朝」と呼ばれる時代を築いていく。そして、ここでもう一度、ハプスブルク家の名前が登場する。
スペイン王フェリペ2世である。
フェリペ2世とエリザベス1世
フェリペ2世は、スペイン・ハプスブルク家の王である。そして彼は、かつてエリザベスの異母姉、メアリー1世と結婚していた。
1554年、メアリー1世とフェリペは結婚する。

メアリー1世とフェリペ (Public Domain
フェリペにとっては、イングランドとの同盟を強める意味を持つ結婚でもあった。
しかし、メアリー1世は1558年に死去する。その後、王位を継いだのがエリザベスだった。
そして翌1559年、フェリペ2世はエリザベスにも結婚を申し込んだ。エリザベスは、その申し出を受けなかった。
フェリペ2世にとっては、イングランドとの関係を維持するための政治的な意味も大きい結婚だったと考えられる。一方のエリザベスは、生涯結婚しなかった。
のちに「ヴァージン・クイーン」と呼ばれることになる女王である。
こうして見てみると、アン・ブーリンの人生から始まった一本の線は、不思議なところでハプスブルク家へ戻ってくる。
アン・ブーリン
その娘、エリザベス1世、その異母姉、メアリー1世。
メアリー1世の夫、フェリペ2世。
そして、その叔母にあたるキャサリン・オブ・アラゴンと、その甥カール5世。16世紀の王室は、それぞれが別々に存在していたわけではない。
婚姻によって結ばれた王家の線を辿っていくと、一人の女性の人生が、別の王朝の歴史へとつながっていくのである。
おわりに
アン・ブーリンは、わずか数年のうちに、宮廷の女性から王妃となり、そして囚人となった。その人生は、後世の映画や小説の中で何度も描かれてきた。
だからこそ、アンの姿はいつの間にか、さまざまな物語によって形づくられている。けれど、史実を一つずつ辿ってみると、その人生は映画以上に複雑である。
ブーリン家の姉妹。
ヘンリー8世。
キャサリン・オブ・アラゴン。
エリザベス1世。
そして、スペイン・ハプスブルク家のフェリペ2世。
一人の女性の人生を辿っていくだけで、16世紀のヨーロッパを動かしていた王家と王家のつながりが見えてくる。
歴史は、ときどき思いがけないところで一本につながる。
アン・ブーリンの物語も、その一つなのである。
併せて読みたい:メアリー1世はなぜフェリペ2世と結婚したのか?“女王の選択”とその代償
参考文献
- アン・ブーリンの手紙 1536年
- アン・ブーリン裁判の一次史料 The National Archives
KB 8/9 — Charges against Anne Boleyn, her brother and other courtiers - 裁判記録そのものについての解説:https://www.nationalarchives.gov.uk/education/students/videos/spotlight-on/anne-boleyns-trial/
- British Library
Cotton MS Vitellius B XII - British Library
Cotton MS Appendix XXVII - British Library
Add MS 8267 - メアリー1世とフェリペ2世の結婚
- The National Archives
