「ハプスブルク顎」として知られるこの特異な顔貌は、単なる家系の特徴ではなく、王家の存続を賭けた「血統管理」の結果だった。
ハプスブルク家は13世紀から20世紀にかけてヨーロッパの広大な領土を支配し、数多くの王や皇帝を輩出した。しかし、その権力を維持するために取った手段のひとつが「極端な近親婚」だったのである。
この記事のポイント
- 16世紀、カルロス1世が最盛期を築き、血統の純潔を重視し始める
- フェリペ2世以降、叔姪婚や又従兄妹婚が続き遺伝的問題が深刻化する
- 1700年、カルロス2世の死で血統が絶え、スペイン・ハプスブルク家が断絶
- English version available here :The Habsburg Jaw: Why Inbreeding Shaped a Dynasty’s Fate
ハプスブルク家と「青い血」の呪縛
「高貴な青い血」。 貴族や王族の象徴とされるこの言葉の裏には、皮肉な真実がある。

マルガリータ・テレサ (出典:Wikimedia Commons Public Domain)
屋内で育ち、日光を避けた王たちの透き通る肌。そこに浮かぶ青い血管を見て、人々は“神に選ばれし者”の証と崇めた。
もともとはスペイン語 「sangre azul」 に由来し、ムーア人の血を退けた“純血”の誇示とも結びついていたともいう。だが、その血はあまりに「純粋」すぎた。
特に、ヨーロッパ随一の大国であったスペイン・ハプスブルク家は、格下の家との結婚を拒み、プロテスタントとの婚姻も許さなかった。
その結果、選択肢は限られ、「王族は王族と」—つまり親戚同士でしか結婚できなかった。血統を守るという美名のもと、王家は自らの遺伝子に呪いを刻んでいったのである。
顎の形に浮かび上がる悲劇の肖像
「ハプスブルク顎」— 医学的には下顎前突症 (かがくぜんとつしょう)。 下顎が過度に突き出し、上顎と噛み合わず、顔全体が歪む。
代表的なのがカルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)。 彼の肖像画からは、長く突き出した顎、噛み合わぬ歯列、開いたままの口元が読み取れる。
次第にこの特徴は強まり、フェリペ4世の時代には下顎の突出がより顕著に。 最終形態とも言えるのが、最後のスペイン・ハプスブルク王カルロス2世である。

スペインハプスブルク (当主の家系図) © Habsburg-Hyakka.com
その顎はまるで顎ではなく、呪いそのもの。 口は常に半開き、唾液を垂らし、言葉も不明瞭だったと記録される。
婚姻の迷路と遺伝の罠
スペイン・ハプスブルク家の婚姻関係は、もはや迷宮である。
- フェリペ2世:姪のアナと結婚
- フェリペ3世:またいとこであるマルガレーテと結婚
- フェリペ4世:姪のマリアナと再婚
- カルロス2世:両親が叔父と姪(近親婚係数0.254)
いとこ婚(0.0625)をはるかに超える近親度をもって生まれたカルロス2世には、知的障害、生殖不能、虚弱体質といった症状が見られた。
青い血は、もはや高貴ではなく、毒だった。
肖像画で見るパプスブルク顎
以下は、代表的なハプスブルク家の肖像と顎の特徴である。
カルロス1世(1500-1558年)

カルロス1世の肖像画 (public Domain)
いつからハプスブルク顎は現れたのか、「ハプスブルク顎」が歴史上に明確な形で現れるのは、16世紀初頭、神聖ローマ皇帝カール5世(カルロス1世)の代からであるとされる。
肖像画を見ても、下顎が前に突き出している様子が明確に確認できる。
彼の時点では、まだ遺伝的な影響は限定的だったが、彼の子孫たちが近親婚を繰り返したことで、次第に特徴が強まっていった。
ルドルフ2世(1552–1612年)

ルドルフ2世の肖像画 (Public Domain)
ルドルフ2世は、オーストリア・ハプスブルク家出身であり、実のいとこ同士であるマクシミリアン2世とマリア・デ・アウストリアの間に生まれた。
この婚姻はスペインとオーストリアというハプスブルク両家の結束を強める意図で行われたが、彼自身の生涯には、その“血の濃さ”ゆえの影がついて回った。▶︎ なお、この“いとこ婚”が家系に残した影響は、【オーストリア系ハプスブルク家系図】を見ると一目で分かる
フェリペ4世(1605-1665年)

フェリペ4世の肖像画(Public Domain)
フェリペ4世の肖像画では、顎の突出だけでなく、厚い下唇や長い顔立ちが見られる。これは、先祖代々受け継がれてきた特徴がいっそう顕著になりつつある兆候であった。
レオポルト1世(1640–1705年)

レオポルト1世の肖像画 (Public Domain)
長く突き出た下顎と垂れた口元、レオポルト1世の肖像には、すでに「ハプスブルク顎」の明確な兆候が見られる。
オーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世は、スペインハプスブルク家の王女と婚姻した。カルロス2世の姉、マルガリータ・テレサである。
カルロス2世(1661-1700年)

カルロス2世の肖像画 (Public Domain)
スペイン・ハプスブルク家最後の王であるカルロス2世の肖像画を見ると、彼の「ハプスブルク顎」は極端に発達している。
さらに、顎だけでなく、身体の発達も遅れ、知的障害や生殖能力の欠如といった深刻な健康問題を抱えていた。彼は「呪われた王」と呼ばれることもあり、彼の死によってスペイン・ハプスブルク家は完全に断絶した。
マリー・アントワネット (1755年- 1793年)

マリーアントワネットの肖像画 (Public Domain)
だがこの“血の印”は、これで完全に消えたわけではなかった。たとえば、のちにフランス王妃となるマリー・アントワネット。
──彼女もまた、ハプスブルク家の娘である。肖像画を見ると、彼女の顔にもやや長めの顎の輪郭が見てとれると指摘する研究者もいる。
もちろん、カルロス2世のような極端な症状には程遠いが、「王族らしい顔立ち」としての“ハプスブルク的特徴”が受け継がれていた可能性も否定できない。
「なぜやめなかったのか?」という永遠の問い
王家の誰もが、この呪いに気づかなかったわけではない。 それでもやめなかったのは、次のような「理屈」があったからである。
- 領土を分割しないため
- 王家の威厳を保つため
- プロテスタントとの縁組を避けるため
合理性と非合理が紙一重で同居したハプスブルクの家系戦略は、やがて自滅を招いた。
科学が語る「ハプスブルク家の宿命」
2009年のAlvarezらの研究では、スペイン・ハプスブルク家における近親婚係数と「ハプスブルク顎」の発現率に、明確な相関があると示された。
つまり、あの特徴的な顎の形は偶然ではない。
愛でも美でもなく、「戦略」と「代償」が身体に刻んだ結果だったということだ。そしてカルロス2世の死をもってスペイン・ハプスブルク家は断絶し、王座はフランス・ブルボン家へ渡った。
“純血”と呼ばれた一系の流れは、ここで静かに終わりを迎える。
この近親婚が家系にどのような影響をもたらしたのかは、▶︎【完全図解】ハプスブルク家の近親婚が“一目でわかる家系図”を見れば、一枚で理解できる。
そして家系図を見終えたとき、“最後はどうなったのか”“なぜ彼らはその道を選びつづけたのか”という問いが、自然と胸の奥に浮かびあがるだろう。
まとめ
ハプスブルク家は、政略結婚を駆使して広大な領土を支配し、ヨーロッパ史上屈指の王家として君臨した。しかし、その血統を守るために繰り返された「近親婚」は、スペイン・ハプスブルク家において特に深刻な影響を及ぼした。
代を重ねるごとに、顎の突出(下顎前突症)をはじめとする遺伝的特徴が強まり、次第に健康問題や生殖能力の低下、知的障害といった深刻な症状が現れた。
「高貴な血統を守る」ことを最優先にした結果、王家自体の存続が危うくなったハプスブルク家の歴史は、血統管理の難しさとリスクを浮き彫りにしている。
そして、その宿命を背負った若き王の姿が、やがて帝国の最後を映し出す──▶︎カルロス2世とは何者か?肖像画が語るスペイン・ハプスブルク家最後の王
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参考文献
- 画像出典:Wikipedia Commons (パブリックドメイン) , 家系図:当ホームページ編集者作成
- Alvarez, G., et al. (2009). “The Role of Inbreeding in the Extinction of a European Royal Dynasty.”
- Archivo General de Simancas(スペイン王室公文書館)
- 名画で読み解くハプスブルク家12の物語 中野京子
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Biblioteca Nacional de España(スペイン国立図書館)
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Österreichische Nationalbibliothek(オーストリア国立図書館デジタルアーカイブ)
