王妃はなぜ憎まれたのか?マリー・アントワネットとフランス革命の悲劇

皇妃・王族・子供たち

マリー・アントワネットは、なぜこれほどまでに憎まれたのだろう。

「オーストリア女」「浪費家」「淫婦」そして、革命が始まると「国家の敵」。けれど、彼女がフランスへ嫁いだ1770年から、ずっとこのように見られていたわけではない。

15歳でフランス王太子ルイと結婚したマリー・アントワネットは、当初はむしろ新しい時代を象徴する若い王妃として期待されていた。

それが、わずか十数年のあいだに変わっていく。

なぜだったのか。

そこには、彼女自身の振る舞いだけではなく、ハプスブルク家出身という「出自」、王妃として求められた役割、宮廷生活への批判、王室財政への不満、そしてフランス革命という巨大な政治変動が重なっていた。

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この記事のポイント

マリー・アントワネットは、ひとりの「悪女」だったのではない。王妃という立場とハプスブルク家の出自、そして革命という時代によって、「憎まれる王妃」へとつくられていった女性だった。

「オーストリア女」と呼ばれて

マリー・アントワネットは、1755年、ウィーンで生まれた。

母はハプスブルク家のマリア・テレジア。 父は神聖ローマ皇帝フランツ1世である。つまり彼女は、フランス王家の娘ではない。
ハプスブルク家からフランスへ嫁いできた、外国の王女だった。1770年、フランスとオーストリアの関係改善を背景に、15歳のマリー・アントワネットはルイ王太子と結婚する。

©︎ Habsburg-Hyakka.com

この結婚は、長く対立してきたフランスとオーストリアの関係を結び直す、外交的な意味を持っていた。 しかし、フランス人にとってオーストリアは、決して馴染み深い国ではなかった。
やがてマリー・アントワネットは、「オーストリア女」と呼ばれるようになる。これは単に「オーストリア出身の女性」という意味ではなかった。
フランス人ではない王妃。宮廷のしきたりに馴染まない王妃。
そして、フランス国内の政治に影響を与えようとする王妃。 彼女の「出自」そのものが、次第に批判の材料になっていったのである。

求められた「世継ぎ」

もう一つ、彼女の評判を悪化させたのが、王太子夫妻の夫婦関係だった。
1770年の結婚後、しばらくのあいだ二人の間には子どもが生まれなかった。王太子妃にとって、これは単なる夫婦の問題ではない。
王位継承者を産むことそのものが、王妃の重要な役割だったからである。
宮廷では夫婦関係についてさまざまな噂が飛び交い、マリー・アントワネットは「王妃としての役割を果たせない女性」と見られるようになっていった。
1777年には、兄ヨーゼフ2世がフランスを訪問し、妹の結婚生活について助言している。その後、夫妻の間には子どもが生まれ始めた。
しかし、それまでの年月に広まった噂や風刺が、すぐに消えることはなかった。王妃には、妻であることだけではなく、「王家の後継者を産む母」であることまで求められていた。
その期待そのものが、彼女への視線を厳しいものにしていったのである。

「王妃は浪費家」

マリー・アントワネットには、「浪費家」というイメージもつきまとう。
宮廷衣装をまとったマリー・アントワネット、 1775年頃 

宮廷衣装をまとったマリー・アントワネット、 1775年頃  (出典:Wikimedia Commons)

実際、彼女は衣服や宝石、舞踏会、演劇など宮廷生活を楽しみ、プチ・トリアノンを自分の私的な空間として使用した。
しかし、ここで重要なのは、彼女個人の支出だけを見ればフランスの財政危機を説明できるわけではないということだ。
18世紀後半のフランスでは、国家財政そのものが深刻な問題を抱えていた。財政改革は難航し、税負担への不満が高まり、食料価格や社会不安も人々の生活を圧迫していた。
そのような状況のなかで、王室の贅沢は単なる宮廷生活ではなく、社会の不平等や旧体制を象徴するものとして見られるようになっていく。
そして、王妃の服装や宝石、生活ぶりは、格好の批判材料となった。ここで生まれたのが、 「国民が苦しんでいるのに、王妃は贅沢を続けている」 というイメージである。
実際の支出の規模や財政全体の問題とは別に、マリー・アントワネットは「浪費する王妃」の象徴となっていった。 国家そのものへの不満が、目に見える一人の王妃へと集められていったのである。

首飾り事件

首飾り事件のイメージ画像 (AI Generated Image)

1785年、マリー・アントワネットの評判を大きく傷つける事件が起こる。

「首飾り事件」である。 王妃のために用意されたと信じ込ませられた高価なダイヤモンドの首飾りをめぐり、詐欺事件が起こった。

しかし、マリー・アントワネット本人はこの首飾りを購入していなかった。この首飾りは以前にも王妃へ購入を勧められていたが、彼女は断っていた。

事件では、王妃を装った人物まで登場し、彼女とは無関係のところで詐欺が進められていたのである。それでも、事件によって傷ついたのは王妃の評判だった。
裁判の結果、マリー・アントワネット自身は事件の犯人ではなかった。それにもかかわらず、彼女は「贅沢な王妃」「宝石に目がない王妃」という、それまでにつくられていたイメージと結びつけられてしまった。
ここから、パンフレットや風刺画による王妃への攻撃はさらに激しくなっていく。
重要なのは、 「マリー・アントワネットが実際に何をしたのか」だけではない。「マリー・アントワネットなら、そんなことをするだろう」 というイメージそのものが、すでに社会の中に形成されていたことだった。

「王妃」から「外国勢力とつながる女」へ

こうして形成された王妃像に、もう一つの問題が重なる。それが、彼女の政治的な立場である。
マリー・アントワネットは母マリア・テレジアや兄ヨーゼフ2世と手紙を交わし、フランスとオーストリアの関係についても関心を持っていた。
もちろん、ハプスブルク家の一員として生まれた彼女にとって、母国とのつながりは自然なものでもあった。しかしフランス国内では、こうしたつながりそのものが疑念の対象となっていく。
「フランス王妃なのに、オーストリアの利益を考えているのではないか」 そんな疑いである。 そして1789年、フランス革命が始まる。ここから、マリー・アントワネットを取り巻く状況は決定的に変わっていく。

革命が始まって

1789年、三部会が招集され、フランスの政治は大きく揺れ始める。

財政危機、食料価格の上昇、政治改革への要求。 革命は、突然一日で始まったものではなかった。 同年10月、ヴェルサイユに集まった群衆によって、国王一家はパリへ移される。

王室はもはや、ヴェルサイユ宮殿で自由に暮らす存在ではなくなった。

そしてマリー・アントワネットにとっても、ここから「王妃としての生活」は終わりへ向かっていく。王妃としての行動は、以前とは違う政治的な意味を持つようになった。

「逃げた王家」へ

1791年、国王一家はパリを脱出し、東部のヴァレンヌへ向かう。しかし途中で発見され、パリへ連れ戻された。

この出来事は、革命の中で王室への信頼を大きく損なうことになる。 国王一家は、フランス国内に留まりながら革命と向き合うつもりなのか。

それとも、外国へ逃れ、革命を外から覆そうとしているのか。

王室の意図をめぐる疑念が一気に強まった。 そして、マリー・アントワネットの「オーストリア女」というイメージも、ここで再び政治的な意味を持つようになる。

彼女の母国オーストリアは、フランス革命をめぐるヨーロッパ諸国との対立の中に入っていく。もはや彼女は、単なる外国出身の王妃ではなかった。

革命に敵対する外国勢力とつながる人物として、見られるようになっていったのである。

「王妃」ではなく「国家の敵」へ

1792年6月20日、テュイルリー宮殿に押し入った暴徒に立ち向かうマリー・アントワネットと子供たち (出典:Wikimedia Commons)

テュイルリー宮殿に押し入った暴徒に立ち向かうマリー・アントワネットと子供たち (出典:Wikimedia Commons)

1792年、フランスはオーストリアに宣戦布告する。

戦争が始まると、王妃の立場はさらに厳しくなる。ハプスブルク家出身であること。オーストリアとの関係。王室が革命に対してどのような態度を取っているのかという疑念。

それらが、一つに結びついていった。そして8月10日、テュイルリー宮殿が襲撃され、王政は崩壊へ向かう。国王一家はタンプル塔に幽閉され、1793年1月、ルイ16世が処刑される。

マリー・アントワネットもコンシェルジュリーへ移され、革命裁判にかけられた。そして1793年10月16日、処刑される。

ここに至るまでの道のりを振り返ると、マリー・アントワネットへの憎悪は、一つの出来事から生まれたものではなかったことがわかる。

外国出身の王妃という出自、世継ぎをめぐる宮廷の噂、宮廷生活への批判。「浪費家」というイメージ。首飾り事件による決定的な評判の悪化。

そして革命と戦争によって強まった、オーストリアとのつながりへの疑念。それらが、時間をかけて積み重なっていったのである。

さいごに

マリー・アントワネットと息子の最後の別れ (出典:Wikimedia Commons)

最初の疑問に戻ってみよう。

マリー・アントワネットは、なぜこれほどまでに憎まれたのだろう。

その答えを、彼女自身の性格だけに求めることはできない。彼女はハプスブルク家の皇女として生まれ、フランスとオーストリアの関係を背負ってフランス王家へ嫁いだ。

王妃となった彼女には、世継ぎを産むこと、宮廷の期待に応えること、そして王家を支えることが求められた。一方で、フランス社会にはすでに財政や税制、政治体制への不満が蓄積していた。

そこへ「オーストリア女」という出自への警戒、「浪費家」というイメージ、首飾り事件、そして革命と戦争が重なっていく。こうして、マリー・アントワネットという一人の女性は、次第に「旧体制そのもの」を象徴する存在として見られるようになった。

だから、彼女の悲劇は単純に、「悪い王妃が民衆に憎まれた」という物語ではない。

一人の王妃に対するイメージが、宮廷社会、政治、世論、外交、そして革命という大きな時代の変化のなかで、少しずつ形づくられていったのである。

そして、その過程をたどっていくと、一つの疑問が残る。 私たちが肖像画で見る「マリー・アントワネット」は、いったい何者だったのだろうと思う。

革命の「悲劇の王妃」としてではなく、肖像画に描かれた一人の女性としてマリー・アントワネットを見てみる。彼女は誰の娘で、誰と結婚し、どのような家族をつくったのか。

家系図と肖像画を重ねてみると、革命の物語だけでは見えてこなかった、もう一つのマリー・アントワネットの姿が浮かび上がる。▶︎【考察】肖像画と家系図でたどるマリー・アントワネット―彼女はいったい、何者だったのか

さらに詳しく:
📖【フランス革命とは何だったのか】ブルボン家崩壊の衝撃
📖  マリア・テレジアとは?帝国を支えた“女帝”の素顔と家族の物語

参考文献
  • フレイザー, アントニア『マリー・アントワネット』上・下巻(中公文庫、2001年)
  • 長谷川まゆ帆『マリー・アントワネットの子供たち』(河出書房新社、2006年)
  • スタール夫人『革命下の王女 マリー・テレーズ』手塚リサ訳(白水社、2010年)
  • デュバク, ジャン=クリストフ『ルイ17世の死』中山京子訳(藤原書店、1999年)
  • 渡邊昌美『フランス革命と王政の崩壊』(講談社現代新書、1995年)
  • エゴン・C・コルディ『ハプスブルク家の人々』(新書館、1992年)
  • (※) アントニア・フレイザー『マリー・アントワネット』上巻参照
  • The Affair of The Diamond Necklace, 1784-1785
  • Dena Goodman and Thomas E. Kaiser, eds., Marie-Antoinette: Writings on the Body of a Queen, Routledge, 2003.
  • Château de Versailles, “Marie Antoinette”
この記事を書いた人 Author
舟島 (Funejima)

国際的な業務に携わり10年以上。

英語などを用いた資料調査・翻訳に対応。
一次史料、海外の学術論文・専門書などをもとに複数資料を照合し、歴史的事実を検証したうえで執筆しています。

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