【産め、されど産むな】王妃たちと“禁じられた避妊”

María Carolina de Austria 医療の歴史と信仰

それは沈黙の命令だった。

「産め、されど産むな」──王妃に求められたのは、国家の未来を担う子を産むこと。しかし、その身体には“数”が決められていた。

多すぎても、少なすぎてもいけない。健康な男子を、必要なだけ。だが、歴史の裏側には「産みすぎないための策略」も存在していた。

本記事で語るのは、ハプスブルク家の王妃マリア・カロリーナを中心に、近世ヨーロッパの宮廷で語られることのなかった“避妊”の実態である。

この記事のポイント
  • 王妃の使命は、後継となる「男児」を産むことだった
  • 18人もの子供を産んだマリア・カロリーナは、密かに出産間隔を調整していた
  • 禁じられた避妊は信仰の裏で密かに継承された「身体を守る」知恵であった

「王妃の務め」は出産である

17〜18世紀、王妃の役割は明確だった。

  • 正統な男子を産むこと
  • 国家間の同盟を強化すること
  • 徳と礼節を備えた妃としてふるまうこと

このうち、最も重視されたのが「男子の出産」だった。王朝の血統が続くか否か──それは妃の子宮にかかっていた。

だが妊娠・出産は命懸けである。産褥熱、流産、死産──危険を前にしても、王妃たちは黙して従うしかなかった。本当に、それしか選択肢はなかったのだろうか?

マリア・カロリーナの「沈黙の調整」

ナポリ王家の肖像画

ナポリ王家の肖像画 (出典:Wikimedia Commons Public Domain) 

ナポリ王妃となったマリア・カロリーナは、マリア・テレジアの第13子としてウィーンで育ち、「18人もの子を産んだ」ことで知られる。

だが、出産のペースには不自然な空白期間がある──複数の医療史家の研究では、彼女が「妊娠を意図的に回避した可能性」が指摘されている。

侍医ファン・スウィーテンの一派による指導のもと、彼女は体調の管理や受胎回避の処置を行ったとされる記録が、断片的に残っている。

王妃の身体は、王家の資産であり、戦略装置だった。その身体を守る手段として、避妊は「語られぬ実践」として存在していたのだ。



信仰と医療の狭間で──避妊の“禁忌”

カトリック教義では避妊は罪とされていた。

「産めよ、増えよ、地に満ちよ」──聖書の言葉が、王妃たちにとっては現実の重荷となる。王妃の身体は、「模範」でなければならない。

だからこそ、公に避妊を語ることはできなかった。しかし、宮廷の裏側では確かに「防ぐ技術」が存在していた。

避妊をめぐる信仰と処方

近世ヨーロッパの医療現場では、さまざまな手法が密かに使われていた。

子宮を収縮させるハーブ(フェヌグリーク、セイヨウカノコソウ)は、月経促進や妊娠初期の中絶に用いられた。(※注1)

特にパセリは、大量摂取または膣への挿入により子宮を刺激する作用があるとされ、精油には強い作用があり、慎重な扱いが必要だった。

「後戻り薬」は性交直後に服用し、着床を防ぐためのハーブブレンド。ペニーロイヤルやヘンルーダなどが含まれていた。

伏せられた知識

そのほかにも、「動物性の膣栓」などがあった。羊の膀胱や豚の腸を使って作られた“原始コンドーム”で、殺精子剤をしみ込ませて膣に挿入し、精子の侵入を物理的に防いだ。

排卵周期の把握も行われており、性行為のタイミングを調整して受胎の確率を下げる方法として、侍女や助産婦が記録を管理することもあった。

こうした知識は、医師・侍女・助産婦らによって非公式に伝えられていた。信仰の掟と、王妃の健康は、常にせめぎ合っていたのだ。



沈黙が語る「産み控え」の証拠

王妃たちの記録に、避妊という言葉はまず出てこない。だが、記録されなかったことが何よりの証左でもある。

  • 不自然な出産間隔
  • 妊娠・出産記録の空白
  • 「産みたくない」と周囲に語ったという逸話

ハプスブルク家以外にも、たとえば、フランス王妃マリー・レクザンスカ(ルイ15世妃)は、10人を産んだのち、性生活の頻度を控えるよう夫に願い出たとされる。

また、マリア・テレジアの時代には、娘たちの出産回数について密かに調整が入っていた可能性も指摘されている。仮説の域ではあれ、沈黙は、無ではない。

身体は誰のものか──避妊と女性のエージェンシー

「国家のために産む」──それは王妃に課された美名と呪い。だが実際には、王妃たちは自らの身体をどうにか守ろうとしていた。

避妊は、単なる医療行為ではない。

  • 信仰と医療のせめぎあい
  • 政治による身体管理
  • 女性の“沈黙の意思表示”

王妃たちは、声に出すことなく、自らの身体の主は誰なのかを問い続けた。



まとめ

王妃たちは、声を上げることはなかった。だが、誰にも明かされることのなかった“選択”こそが、彼女たちの小さな抵抗であり、祈りだったのかもしれない。

出産は、喜びであると同時に、義務であり、試練でもあった。

「生まなければならない」社会の中で、どうすれば「自分自身の身体」を守れるのか。それは今もなお、女性たちに突きつけられる問いである。

次に読むなら…
▶︎『産むたびに命を削った女たち|王家に生きた“母”の宿命
▶︎『禁じられた救いの手|近世ヨーロッパにおける堕胎と医師の葛藤』
▶︎『鏡に映る身体|肖像画が語る王妃の病と美の政治』

  • (注1) Riddle, John M.
     Eve’s Herbs: A History of Contraception and Abortion in the West
     Harvard University Press, 1997.
     → 避妊・堕胎に用いられたハーブ(パセリ、フェヌグリーク、ペニーロイヤル等)の薬理作用と民間療法に関する包括的研究。)
  • (注2)  Green, Monica H.
     “Bodies, Gender, Health, Disease: Recent Work on Medieval Medicine”
     Speculum, Vol. 88, No. 4, 2013, pp. 1157–1174.
     → 膣栓(pessaries)や“避妊処方”が女性医療にどう位置づけられていたかを分析。動物性素材の使用も言及。
  • Laqueur, Thomas
     Making Sex: Body and Gender from the Greeks to Freud
     Harvard University Press, 1990.
  • Rowlands, Alison
     “Witchcraft and Gender in Early Modern Europe”
     Past & Present, No. 173, 2001, pp. 50–67.

    ⚠️ 本記事で紹介している避妊法(ハーブの服用、動物性膣栓など)は、近世ヨーロッパにおける歴史的記録や文献に基づくものであり、現代においては安全性や有効性が科学的に確認されているものではありません。中には生命に関わる危険な処置も含まれており、現在では医療上、推奨されていないものです。もし避妊や妊娠に関する悩みがある場合は、専門の医療機関への相談がもっとも安全で確実な方法です。

 

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