マリー・アントワネットの肖像画を見るとき、つい彼女自身に目がいく。 華やかなドレス。 大きく結い上げた髪。
そして、子どもたちを連れた母としての姿。なかでも有名なのが、エリザベート=ルイーズ・ヴィジェ・ルブランが1787年に描いた「マリー・アントワネットと子どもたち」である。
この絵には、マリー・アントワネットと3人の子どもが描かれている。 けれど、ここで少し気になる。「この子たちは、その後どうなったのだろう?」
実は、ルイ16世とマリー・アントワネットの間には、4人の子どもがいた。
長女マリー・テレーズ。 長男ルイ・ジョゼフ。 次男ルイ・シャルル。 そして、末娘ソフィー。
4人の人生は、フランス革命によって大きく分かれていく。
一人は革命前に亡くなり、一人は革命のさなかに命を落とし、一人は長い幽閉生活を送り、そして一人だけが革命を生き延びた。 その運命をたどってみると、マリー・アントワネットの家族だけでなく、フランス王家そのものの行方が見えてくる。
この記事のポイント
マリー・アントワネットの子女として生まれた子供達。ふたりは夭逝するも、生き残ったふたりも革命の嵐に飲まれた。王党派に担がれたルイ17世は監禁され獄死、生き残ったのは姉マリー・テレーズだけだった
ベルサイユに生まれた四つの命
まずは家系図から見てみよう。

©️ Habsburg-Hyakka.com (二次利用不可ー転載する際は必ずリンク付け願います)
ルイ16世とマリー・アントワネットの間には、1778年から1787年にかけて4人の子どもが生まれた。
ヴェルサイユ宮殿の資料でも、この4人が確認されている。ソフィーは1787年、11か月で亡くなり、長男ルイ・ジョゼフも1789年、革命が始まった直後に亡くなった。
つまり、フランス革命が本格化した時点ですでに、4人のうち2人はこの世を去っていた。 残されたのは、マリー・テレーズとルイ・シャルルだった。
ここで、もう一度、絵を見てみたい。

1787年に描かれたこの肖像画では、マリー・アントワネットが3人の子どもとともに描かれている。 画面中央にいるのがマリー・アントワネット。
そのそばにいるのが長女マリー・テレーズ。 そして、幼いルイ・シャルルと、ルイ・ジョゼフの姿もある。
一見すると、王妃とその子どもたちを描いた華やかな宮廷肖像画である。 しかし、この絵には、少し気になるところがある。
右側の空のゆりかごだ。 これは、すでに亡くなった末娘ソフィーの存在を示すものとされている。
つまり、この肖像画には、実際にはもうここにいない子どもの姿までが込められている。 そして、この絵が描かれたわずか2年後、フランス革命が始まる。
家族を取り巻く状況は、急速に変わっていく。
王になるはずだった少年

マリー・テレーズとルイ・ジョセフ (左側) 出典:Wikimedia Commons
ルイ・ジョゼフは1781年に生まれた。
王太子、つまり将来のフランス国王となる立場だった。 しかし、幼いころから健康に問題を抱え、1786年には結核の兆候が見られるようになる。
そして1789年6月、フランス革命が始まったまさにその時期に、8歳で亡くなった。 彼はフランス革命によって処刑されたわけではない。
革命が本格的に動き始める直前、その生涯を終えている。 もし生きていれば、彼は後のフランス王になっていたはずだった。けれど、その未来を見ることはなかった。
「ルイ17世」と呼ばれた少年
兄ルイ・ジョゼフが亡くなると、王位継承順位は弟のルイ・シャルルへ移る。
1785年生まれ。 そしてフランス革命が進むなかで、彼の人生も大きく変わっていく。
1792年、王一家がテュイルリー宮殿から追われると、ルイ・シャルルも家族とともにタンプル塔へ移された。 1793年1月、父ルイ16世が処刑される。
この時点で、王党派からは幼いルイ・シャルルが「ルイ17世」として扱われるようになる。 ただし、彼自身が王として統治したことはない。
その後、母マリー・アントワネットとも引き離され、タンプル塔での幽閉生活を送ることになる。 そして1795年、10歳で亡くなった。

監禁されるドーファン(フスタフ・ワッペルス画) 出典:Wikimedia Commons
ヴェルサイユ宮殿の資料では、死因は結核とされている。彼の心臓は保存され、後にDNA分析によってマリー・アントワネットの息子であることが確認された。
革命を生き延びた子ども
そして、4人の子どものうち、フランス革命を生き延びたのが長女マリー・テレーズだった。
1778年生まれ。 マリー・アントワネットにとって最初の子どもであり、フランス王家の長女でもある。母の処刑後も、彼女は同じ塔に幽閉され続けた。
階下から聞こえる弟の泣き声。だが、その声が止んでも、面会は一度も許されなかった。やがて彼女は17歳の誕生日に、ハプスブルク家との囚人交換で釈放される。

ルイ16世の娘、マリー・テレーズ・シャルロット王女がパリからスイスへ出発する様子を描いた版画 (出典:Wikimedia Commons) License: CC BY-SA 4.0
ここで、ハプスブルク家の家系図がもう一度つながってくる。 なぜなら、彼女の母マリー・アントワネット自身が、ハプスブルク家の出身だからである。

©️ Habsburg-Hyakka.com (二次利用不可ー転載する際は必ずリンク付け願います)
マリー・アントワネットは、マリア・テレジアの末娘だった。 つまり、 マリア・テレジアから、マリー・アントワネット、マリー・テレーズ という三世代が、一本の線でつながっている。
マリー・テレーズがフランスを離れたとき、彼女が向かったのは母の故郷でもあるオーストリアだった。 ここで、この家族の物語はフランス革命だけでは終わらない。

フランスから脱出したマリー・テレーズ (Public Domain)
ハプスブルク家とブルボン家。 オーストリアとフランス。 二つの王家の結びつきが、今度はその子どもの運命を通して見えてくる。
家庭教師マルタンの回想録には、マリー・テレーズをこう評している。「母のやさしさと父の強さをあわせ持つ娘だった」と。
四人の子供たちの運命
長女マリー・テレーズは、フランス革命を生き延び、のちにフランス王家の一員として亡命生活を送ることになる。一方、長男ルイ・ジョゼフは1781年に生まれたものの、革命が始まった1789年、8歳で亡くなった。
次男ルイ・シャルルは、父ルイ16世の処刑後、王党派から「ルイ17世」と呼ばれるようになる。
しかし、王として統治することはなく、タンプル塔での幽閉生活のなか、1795年に10歳で亡くなった。
そして末娘ソフィー・ベアトリスは、1787年、わずか11か月で亡くなっている。
4人の子どもたちの人生は、それぞれ異なる形で途切れ、あるいは続いていった。その運命をたどると、フランス革命が一つの王家の家族に何をもたらしたのかが見えてくる。
おわりに

最初は、「マリー・アントワネットと子どもたちを描いた肖像画」 に見えたかもしれない。 でも、家系図を知ったあとでは少し違って見える。
ここにいる子どもたちのうち、ルイ・ジョゼフは2年後に亡くなる。 そして、幼いルイ・シャルルは「ルイ17世」と呼ばれることになる。
長女マリー・テレーズだけが革命を生き延び、やがて母の故郷であるオーストリアへ向かう。 そして、画面にはもう一人の子どもの存在を示す空のゆりかごもある。
この一枚の肖像画には、王妃としてのマリー・アントワネットだけではなく、「母としてのマリー・アントワネット」と、その家族のその後までが重なっている。
だから、絵画を見るときには、画面の中だけを見る必要はない。
「この人は誰なのか?」 「この子どもは誰なのか?」 「父母は誰なのか?」 「その家族は、どこから来たのか?」 そうやって家系図をたどっていくと、一枚の肖像画から、王家の歴史が見えてくる。
王妃の転落は、家族の悲劇の始まりでもあった。
あわせて読みたい:
📖 ルイ17世の監禁と虐待―“沈黙の塔”で何が起きていたのか
📖 【王妃はなぜ憎まれたのか?】マリー・アントワネットとフランス革命の悲劇
参考文献
- Fraser, Antonia. Marie Antoinette
- Gendron, François. The Gilded Youth of Louis XVI
- Jean Tulard (ed.), Dictionnaire Napoléon
- 画像引用:Wikipedia Commons (パブリックドメイン)、ルイ17世の心臓: File: Coeur de Louis Charles de France (Louis XVII).jpg Photo by Zantastik, Wikimedia Commons, 2004. Used under Creative Commons or assumed public domain.
- (※) ルイ17世の監禁生活については、19世紀以降に多くの脚色や伝説が加えられており、史料による検証が求められる。本記事では、フランス国立公文書館所蔵の記録および近年の研究をもとに再構成している。
