【禁じられた救いの手】近世ヨーロッパにおける堕胎と医師の葛藤

医療の歴史と信仰
(© Habsburg-Hyakka.com / AI generated image)

それは「見て見ぬふり」をされた罪だった。

近世ヨーロッパ。命を救うことを生業とした医師たちは、ときに命を終わらせる選択を迫られた。だが、それは神の掟に背く「禁忌」とされ、決して記録には残されなかった。

特に、カトリック世界では堕胎は殺人に等しい“重罪”であり、医師たちはその狭間で揺れ動く。本記事では、堕胎という「語られざる医療行為」を軸に、信仰・法・医療のあいだで揺れる医師たちの葛藤を描き出す。

この記事のポイント
  • カトリック教義により堕胎は「殺人」とされ重罪と化していた
  • しかし、医師や助産婦は治療名目で密かに堕胎処置を行っていたという記録がある
  • 近世ヨーロッパにおいて、それは“命を守るための苦渋の選択”でもあった。

神に背く行為──堕胎が「罪」とされた世界

カトリック教会の教義において、避妊や堕胎は「命に対する冒涜」とされていた。

教会法では、「受胎の瞬間に魂が宿る」とされ、人工的な中絶は殺人とみなされた。さらに女性自身に対しても、「産むことは女性の義務である」とされ、妊娠を止める行為そのものが倫理的に否定されていた。

この教義は世俗の法律にも強く影響を及ぼし、18世紀の多くの国では堕胎は重罪に分類されていた。

  • フランス:堕胎は死刑または流刑の対象
  • オーストリア:マリア・テレジア時代、堕胎罪には厳罰(鞭打ち・投獄)が科された
  • イギリス:19世紀前半まで死刑が科された

医師が関与した場合も処罰の対象であり、たとえ命を救う目的であっても、堕胎に加担すれば資格剥奪や追放、最悪の場合は拷問や死刑となった。(※注1)



“知られざる医療”──処方箋に書かれなかった救い

それでもなお、堕胎は密かに行われていた。

医師や助産婦たちは、公式には“治療”として処置を行った。つまり、以下のような言い換えが使われた:

  • 「月経不順の改善」
  • 「体内に残った悪い血を取り除く」
  • 「子宮の鬱血に対する治療」

これらの名目のもと、実質的な堕胎処置が施されていたのだ。

代表的な処置は以下の通りだ。(※注2)

  • ペニーロイヤル、ヘンルーダ、タンジーなどのハーブ:子宮収縮を促すとされた
  • 水銀やアンチモンなどの鉱物製剤:嘔吐や下痢を引き起こし、流産を誘発
  • 器具を用いた外科的処置:極秘に行われたが、感染症のリスクも高かった

これらの手段は、すべて“記録されない処方”として口伝や個人の記憶の中でのみ共有された。

“王家”も例外ではない──統治と信仰のはざまで

堕胎が“公にできぬ行為”であることは、王家においても同様だった。17〜18世紀、ハプスブルク家を含む多くの王家では、妃の妊娠と出産は政治的な問題だった。

  • 出産が早すぎても、遅すぎても「不審」に思われる
  • 子どもの数が多すぎると王妃の体調や政局に影響
  • 後継ぎが産まれないと「妃の責任」が問われる

例えば、マリア・テレジアの娘たちの出産間隔には、当時の王侯貴族としてはやや不自然な“空白”が見られる。

これをもとに、一部の研究者は「意図的な調整や間引きの可能性」も指摘している。もちろん、確たる証拠があるわけではなく、これはあくまで文脈的推察にすぎない。

だが、この“沈黙の空白”にこそ、王妃たちの身体をめぐる葛藤がにじむのかもしれない。公には決して語られないが、「産まない」ことが密かに選ばれた場面も存在していた可能性は否定できない。

沈黙する医師たち──語られなかった葛藤

当時の医師たちは「治療」と「殺人」の狭間に立たされていた。

  • 命を救うために中絶処置をした
  • 妊婦の健康を守るために危険な妊娠を止めた
  • 強姦などの事情を汲み、密かに処置をした

こうした実態は、処方箋やカルテに残ることはほぼない。ただし、以下のような手紙や日記から、当時の葛藤が垣間見える。

「患者の命を守った。しかしそれは、神を裏切ることだったのだろうか」──無名の医師の手記より(1749年)

記録が残らなかったのは、罪悪感ではなく、命を守るためだったのかもしれない。



まとめ

堕胎とは、「命を終わらせる」行為として語られてきた。だが、近世ヨーロッパにおいて、それは“命を守るための苦渋の選択”でもあった。

誰にも知られぬまま処方されたハーブ、記録に残らぬ診療、神と法のはざまで沈黙した医師たち。その背後には、王妃たちの身体に刻まれた「語られぬ痛み」が確かに存在していた。

そしていま、私たちが問い直すべきは、「医療とは誰のためのものか」という原点にほかならない。医学の進歩は、常に信仰・倫理・政治と衝突しながら歩んできた──。

それは、ペスト流行下のウィーンにおける「祈りと医療の対立」にも、また、肖像画に隠された“病の痕跡”にも、共通するテーマである。

次に読みたい:

▶︎『黒死病と王妃の死|レオポルト1世と“祈りにすがった”ウィーンの医療史
▶︎『鏡に映る身体|肖像画が語る王妃の病と美の政治』(近日公開)
▶︎『産め、されど産むな|王妃たちと“禁じられた避妊”

参考文献

(※注1)

  • Colleen McDannell, The Christian Tradition: A History of the Development of Doctrine
    → カトリック圏における堕胎観と法的扱いについて
  • Maria Theresa’s Constitutio Criminalis Theresiana(1768年)
    → オーストリア刑法における女性犯罪と堕胎罪。鞭打ち、懲役、修道院への投獄など
  • The Offences Against the Person Act 1803 (Lord Ellenborough’s Act)
    → 妊娠期間にかかわらず堕胎を重罪(capital felony)と規定、死刑の対象

(※注2) 

  • R.J. Evans, Death in Hamburg: Society and Politics in the Cholera Years, 1830-1910
     → 鉱物系処方(特に水銀、アンチモン)と妊娠・女性医療との関係に言及。
  • Lisa Forman Cody, Birthing the Nation: Sex, Science, and the Conception of Eighteenth-Century Britons
     → 外科的堕胎に関する密かな実例と、助産婦・医師の関与の事例分析
  • Etienne Van de Walle & Elisha P. Renne (eds.), Regulating Menstruation: Beliefs, Practices, Interpretations
     → 鉱物剤や植物製剤の「通経剤(emmenagogues)」としての使用例、嘔吐剤としてのアンチモン使用の記録を多数紹介



・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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