1938年3月、ウィーンの通りには歓声があふれていた。ナチス・ドイツ軍の行進に、市民が旗を振り、花を投げる。
だが、そのすぐ傍らで、ユダヤ人の家庭は略奪され、老人たちは通りに引きずり出され、歯ブラシで石畳を磨かされていた。わずか数日で、この街は黄金時代の顔を捨て去った。
ここから振り返ろう――ウィーンとユダヤ人の歴史は、まるで光と影の二重奏だった。
この記事のポイント
- ヨーゼフ2世の寛容令と十二月憲法で黄金時代が到来する
- しかし、19世紀末、反ユダヤ主義と経済危機で空気が暗転
- 1938年、「アンシュルス」で迫害が始まり街は沈黙することとなった
保護と迫害の繰り返し
中世のウィーンでは、ユダヤ人は「国王の保護民」として商業や金融に従事した。しかしひとたび戦争や飢饉が起これば、「スケープゴート」として迫害を受け、追放と呼び戻しを繰り返す。
17世紀、レオポルト1世の時代にも大規模な追放が行われたが、やがて経済の必要から再び呼び戻された。「許されているが、常に危うい」――これがウィーンに生きるユダヤ人の宿命だった。
寛容令と黄金時代
1781年、ヨーゼフ2世の「寛容令」で状況は変わる。居住地の制限が緩和され、教育や職業にも門戸が開かれた。
1867年にはフランツ・ヨーゼフ1世の「十二月憲法」で法的差別が撤廃され、ユダヤ人は帝国の市民として完全に受け入れられた。
ここからが黄金時代だ。銀行家ロスチャイルド家がウィーン経済を支え、マーラーが楽壇を改革し、フロイトが精神分析学を生み出す。
カフェハウスは思想と芸術の実験室となり、ウィーンはヨーロッパ随一の文化都市として輝いた。
反動と憎悪の再来
だが、繁栄とともに新しい敵意も育っていた。
19世紀末、カール・ルエーガー市長は「反ユダヤ主義」を公然と掲げ、選挙で圧倒的支持を得る。新聞はユダヤ人攻撃の記事で売り上げを伸ばし、街には再び排斥の空気が満ち始める。
第一次世界大戦と帝国崩壊はこの空気を一層重苦しいものにした。敗戦の屈辱、経済危機、政治の混乱――その矛先は再び「ユダヤ人」へと向けられる。
アンシュルス

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1938年3月12日、ヒトラーの率いるナチス・ドイツ軍が国境を越え、オーストリアは併合された。この「アンシュルス(合併)」は、戦争もなく、むしろ熱狂的な歓迎を受けて進んだ。
だがその翌日から、ウィーンのユダヤ人は地獄を見た。財産の没収、職の剥奪、学校からの追放。街角ではユダヤ人が通行人の前で侮辱され、路上清掃を強いられた。
わずか数ヶ月のうちに、ウィーンから数万人が国外へ脱出し、残った人々はやがて強制収容所へ送られていった。かつて芸術と思想の都であったこの街は、「沈黙の共犯者」となったのだ。
まとめ
ウィーンとユダヤ人の関係は、常に「栄光」と「排斥」の間を揺れ動いてきた。寛容令と憲法で築かれた黄金時代は、わずか数十年で終わりを告げる。
1938年、アンシュルスと共に始まったのは、文化の断絶と人命の喪失だった。
だがその記憶は、今日もウィーンの街に刻まれている。
次の記事では、アンシュルス直後の迫害と国外脱出、そしてウィーンが戦後どのように記憶と向き合ったのかをたどる。▶︎アンシュルスとは何だったのか?オーストリア併合と熱狂のウィーン
参考文献
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Evan Burr Bukey, Hitler’s Austria: Popular Sentiment in the Nazi Era, 1938-1945(University of North Carolina Press, 2000)
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Gordon Brook-Shepherd, The Anschluss: The Rape of Austria(Macmillan, 1963)
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Brigitte Hamann, Hitler’s Vienna: A Portrait of the Tyrant as a Young Man(Oxford University Press, 1999)
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Anton Pelinka, Austria: Out of the Shadow of the Past(Westview Press, 1998)
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オットー・フォン・ハプスブルク『私のヨーロッパ』中央公論新社
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石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書
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長谷川公昭『オーストリア現代史—アンシュルスからEU加盟まで』彩流社
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Ian Kershaw, Hitler: 1936-1945 Nemesis(Penguin, 2001)

