ツィタ・フォン・ブルボン=パルマは、崩壊寸前の帝国を支えた“最後の皇后”である。
敬虔で聡明な彼女は、第一次世界大戦の嵐の中で夫カール1世を支え、帝国統合のため奔走した。亡命と戦火を越えたその生涯は、ハプスブルク家の終焉を静かに見届けた女性の物語である。
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【なぜハプスブルク家は滅んだのか?】皇后ツィタが見た帝国の最期を読む▶
基本情報
| 称号 |
オーストリア皇后/ハンガリー王妃/ボヘミア王妃
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| 出生 |
1892年5月9日(イタリア・ルッカ近郊ヴィッラ・ピアーニ)
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| 死去 |
1989年3月14日(スイス・ツーク州ツィトフェン)
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| 享年 | 96 |
| 治世 | 皇后として:1916年〜1918年 |
| 伴侶 | カール1世 |
| 子女 |
オットー・フォン・ハプスブルク(後継者)ほか7人
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| 父親 | ロベルト1世・デ・ブルボン=パルマ公 |
| 母親 | マリア・アントニア・デ・ポルトガル |
| 後継者 | 皇后位廃止(帝国崩壊により空位) |
人物の背景
ツィタは、パルマ公国の亡命公ロベルト1世とポルトガル王女マリア・アントニアの間に生まれた。敬虔なカトリックの家風で育ち、語学と外交に長けた知性を持つ。1911年、ハプスブルク家の若き大公カール(のちのカール1世)と結婚し、愛情に満ちた結婚生活を送った。
1916年、フランツ・ヨーゼフ1世の死去により夫カールが皇帝に即位し、ツィタは帝国最後の皇后となる。第一次世界大戦が激化する中、彼女は戦争終結を模索する和平交渉を推進し、“平和の女帝”とも呼ばれた。
しかし1918年、オーストリア=ハンガリー帝国は崩壊し、夫妻は亡命。ツィタはスイス、ベルギー、カナダなどを転々としながら大家族を守り抜いた。1989年、96歳で永眠するまで、彼女は“皇后”としての気品を失うことはなかった。
治世で起きた主要な出来事
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カール1世との即位(1916年)
フランツ・ヨーゼフ1世の死後、カールが皇帝に即位。ツィタは若干24歳で皇后となり、戦時下の帝国で人道支援と国民の統合を支えた。 -
第一次世界大戦と和平工作(1917〜1918年)
ツィタは兄シクストゥス公を通じて連合国との秘密交渉を試みる(シクストゥス事件)。戦争終結を願ったが、外交的には失敗に終わる。 -
帝国崩壊と亡命(1918年以降)
オーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、夫妻はスイスへ亡命。1922年にカール1世が早世した後も、ツィタは遺児たちを守りながら王家の象徴として生き続けた。 -
晩年と“ハプスブルクの記憶”
第二次世界大戦期にはナチスから逃れ、カナダへ移住。戦後もハプスブルク家の名誉回復に努め、1989年の葬儀はウィーンで国葬級の規模で行われた。
ツィタ・フォン・ブルボン=パルマは、王朝が滅んだ後も皇后としての誇りを失わず、信仰と家族への献身で一族を支え続けた。その姿は、“滅びゆく帝国の良心”として、20世紀のヨーロッパ史に静かな輝きを残している。

