戦乱の中で突如として広大なブルゴーニュ領を継承したマリアは、若くして政治の渦に巻き込まれた令嬢だった。だがその短い生涯は、ハプスブルク家がヨーロッパ広域において支配的勢力となる転機をもたらす。彼女の婚姻と早すぎる死は、帝国版図の行方をも左右した。
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【愛と帝国を遺した王妃】マリア・ブルゴーニュの悲しい輿入れ ▶
基本情報
| 称号 | ブルゴーニュ女公 |
| 出生 |
1457年2月13日(ベルギー・ブリュッセル)
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| 死去 |
1482年3月27日(フランス・ブリュージュ)
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| 享年 | 25 |
| 治世 | 1477年〜1482年(ブルゴーニュ公) |
| 伴侶 | マクシミリアン1世 (神聖ローマ皇帝) |
| 子女 | フィリップ美公(フェリペ1世) |
| マルガレーテ・フォン・エスターライヒ | |
| 父親 | シャルル大胆公(ブルゴーニュ公) |
| 母親 | イザベル・ド・ブルボン |
人物の背景
マリアはブルゴーニュ公シャルル大胆公の一人娘として生まれた。1477年、父がナンシーの戦いで戦死すると、彼女はヨーロッパでも有数の豊かな領地を相続する。

家系図:©︎Habsburg Hyakka.com
その若さゆえに多くの求婚者が現れたが、彼女が選んだ相手はハプスブルク家のマクシミリアン(のちの神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世)。
この結婚により、ブルゴーニュ領はハプスブルク家の支配下に入り、帝国の勢力図は劇的に変化。後の“ヨーロッパをハプスブルクの血統で埋め尽くす戦略”の端緒となった。
治世で起きた主要な出来事
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ブルゴーニュ領の相続(1477年)
父シャルル大胆公の戦死により、マリアは広大かつ富裕なブルゴーニュ領を継承。だが、フランス王ルイ11世が領土を狙い、早くも戦乱が勃発する。 -
マクシミリアン1世との結婚(1477年)
フランスの脅威に対抗するべく、ハプスブルクのマクシミリアンとの婚姻が急速に進められる。これにより、ブルゴーニュは神聖ローマ帝国の守護下へ。 -
グンスト会議体制と諸州との妥協
領地を守るため、マリアは「大特許状(Großer Freibrief)」で諸州の権限を拡大。支配の正統性を得たものの、権力は分散し、統治は容易ではなかった。 -
不慮の死と帝国への併合(1482年)
馬術競技中の落馬事故で死去。未亡人となったマクシミリアンが摂政として統治を引き継ぎ、ブルゴーニュ領はハプスブルク家の資産として確立される。
マリア・ブルゴーニュの短い生涯は、ハプスブルク帝国が“結婚により世界を制す”という王朝戦略を描き出す序章でもあった。彼女がなければ、フィリップ美公も、カール5世 (スペイン王 カルロス1世) による“太陽の沈まぬ帝国”も生まれなかったかもしれない。

