スペイン王フェリペ2世の嫡男ドン・カルロスは、本来ならば帝国の未来を担う存在であった。
しかし、その生涯は心身の不調と政治的陰謀に彩られ、自由を奪われたまま非業の死を迎えることとなる。ハプスブルク家の“近親婚の呪い”と“皇太子の悲劇”を象徴する人物である。
📖 人物エピソードはこちら!
【ドン・カルロス事件の真相】皇子の狂気と監禁をめぐる陰謀 ▶
基本情報
| 称号 | アストゥリアス公 |
| 出生 | 1545年7月8日(バリャドリッド) |
| 死去 | 1568年7月24日(マドリード) |
| 享年 | 23 |
| 父親 | フェリペ2世 |
| 母親 | マリア・マヌエラ・デ・ポルトガル |
| 婚姻 | なし(婚約のみ) |
人物の背景
ドン・カルロスは、スペイン王フェリペ2世とポルトガル王女マリアの間に生まれたが、母は産褥死、父は再婚の後宮廷を離れがちであった。幼少期から病弱で気性が激しく、祖父カルロス5世の血統の近親婚がもたらしたともいわれる精神的・身体的異常が見られた。

家系図 :©︎Habsburg Hyakka.com
さらに、ネーデルラント統治をめぐり父と対立し、カトリックの殉教者として自身を演出しようとするなど、次第に反皇帝的な振る舞いを見せるようになる。
治世で起きた主要な出来事(※皇太子時代の動向)
-
ネーデルラント総督への野心(1560年代)
カトリック解放運動に異常な共感を示し、自ら軍を率いて出陣する意志を表明するが、父王フェリペ2世により却下される。 -
宮廷内での暴走と不安定化(1566–67年)
家臣への暴力、宮廷内での逃亡企図、婚約者エリザベート・ド・ヴァロワとの関係悪化など、一連の奇行が記録される。 -
幽閉と死(1568年)
父フェリペ2世は息子の行動を“国家への脅威”と判断し、カルロスを拘束。半年後、宮廷記録には“自然死”と記されるが、毒殺説が消えない。
ドン・カルロスは、“解放者か、狂人か”。父に背き、理想と現実の狭間で破滅していった皇太子の物語は、今もなお人々の興味をかきたて続ける。

