ドン・カルロス (スペイン王太子)

ドン・カルロスの肖像画 基本情報まとめ
ドン・カルロスの肖像画 (出典:Wikimedia Commons Public Domain)

スペイン王フェリペ2世の嫡男ドン・カルロスは、本来ならば帝国の未来を担う存在であった。

しかし、その生涯は心身の不調と政治的陰謀に彩られ、自由を奪われたまま非業の死を迎えることとなる。ハプスブルク家の“近親婚の呪い”と“皇太子の悲劇”を象徴する人物である。



基本情報

称号 アストゥリアス公
出生 1545年7月8日(バリャドリッド)
死去 1568年7月24日(マドリード)
享年 23
父親 フェリペ2世
母親 マリア・マヌエラ・デ・ポルトガル
婚姻 なし(婚約のみ)

人物の背景

ドン・カルロスは、スペイン王フェリペ2世とポルトガル王女マリアの間に生まれたが、母は産褥死、父は再婚の後宮廷を離れがちであった。幼少期から病弱で気性が激しく、祖父カルロス5世の血統の近親婚がもたらしたともいわれる精神的・身体的異常が見られた。

フェリペ2世 メアリー1世との結婚 家系図

家系図 ©︎Habsburg Hyakka.com

さらに、ネーデルラント統治をめぐり父と対立し、カトリックの殉教者として自身を演出しようとするなど、次第に反皇帝的な振る舞いを見せるようになる。

治世で起きた主要な出来事(※皇太子時代の動向)

  • ネーデルラント総督への野心(1560年代)
    カトリック解放運動に異常な共感を示し、自ら軍を率いて出陣する意志を表明するが、父王フェリペ2世により却下される。

  • 宮廷内での暴走と不安定化(1566–67年)
    家臣への暴力、宮廷内での逃亡企図、婚約者エリザベート・ド・ヴァロワとの関係悪化など、一連の奇行が記録される。

  • 幽閉と死(1568年)
    父フェリペ2世は息子の行動を“国家への脅威”と判断し、カルロスを拘束。半年後、宮廷記録には“自然死”と記されるが、毒殺説が消えない。

ドン・カルロスは、“解放者か、狂人か”。父に背き、理想と現実の狭間で破滅していった皇太子の物語は、今もなお人々の興味をかきたて続ける。



 

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