1938年3月、ウィーン。
街の空気は異様な高揚感に包まれていた。ヒトラーが祖国の土を踏んだ瞬間、数十万人の群衆が広場に押し寄せ、ナチ党の旗が街路を覆い尽くした。
だがこの「アンシュルス」は、ただの軍事進駐ではない。それは、ハプスブルク帝国の崩壊からわずか20年、アイデンティティを失った小国オーストリアが「どこに属するのか」を問われた、国家の選択だった。
この記事のポイント
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1938年、ナチス・ドイツがオーストリアを併合(アンシュルス)
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ウィーンは熱狂したが、同時に迫害と恐怖が始まる
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ハプスブルク帝国喪失後のオーストリアの不安と、第二次世界大戦の前夜を象徴する出来事
帝国喪失から併合まで

アンシュルス以前のドイツ帝国とオーストリアの領土 赤色部分がオーストリア(© Habsburg-Hyakka.com )
第一次世界大戦の敗北により、ハプスブルク帝国は解体され、オーストリアはドナウ流域の小さな共和国となった。
国土はかつての6分の1、人口も激減し、首都ウィーンだけが不釣り合いに巨大なまま取り残さる。
「ドイツとの合併(アンシュルス)」は、この時点ですでに多くの人々が夢見た解決策だった。
しかしヴェルサイユ条約とサン=ジェルマン条約は、オーストリアのドイツ併合を禁止。こうしてオーストリアは、経済不安と政治的分裂を抱えたまま孤立した。
ナチス・ドイツの圧力と政変
1930年代、世界恐慌が追い打ちをかけ、オーストリアでは独裁政権が成立。
しかし国内には依然として「ドイツと一つになりたい」という声が強く、ナチ党員が勢力を拡大していった。ヒトラーはオーストリア出身であり、「故郷の併合」は彼の宿願であった。
1938年3月、首相シュシュニックは国民投票で独立を守ろうとしたが、ヒトラーは軍事介入を決断。ドイツ軍は国境を越え、オーストリア軍は抵抗しなかった。
熱狂と服従の街

© Habsburg-Hyakka.com / AI generated image)
翌日、ヒトラーはウィーンに凱旋し、英雄広場で演説。「大ドイツ国」への編入が宣言されると、群衆は旗を振り、泣き叫び、熱狂の渦と化した。
しかしこの熱狂の裏では、即座にユダヤ人迫害と反対派弾圧が始まっていた。ウィーンのユダヤ人は歩道をブラシで磨かされ、市民の前で嘲笑された。
多くの社会民主党員やカトリック指導者も逮捕され、収容所へ送られた。
ハプスブルク家とアンシュルス
この時、かつての皇帝カールの息子でありハプスブルク家家長のオットー・フォン・ハプスブルクは、亡命先から声明を発表。
「オーストリアは自由であるべきだ」と訴えたが、その声は熱狂にかき消された。皮肉なことに、ウィーンの英雄広場でヒトラーが演説した場所は、かつてハプスブルク皇帝たちが民衆に姿を見せたバルコニーだった。
帝国の象徴だった広場は、この日を境にナチスの象徴へと塗り替えられたのである。
イギリスとフランスは抗議したものの、実質的に黙認。この譲歩は、翌年のミュンヘン会談へとつながり、ヒトラーの侵略政策を加速させた。
アンシュルスは、第二次世界大戦の序章であり、ヨーロッパ秩序崩壊の決定的な一歩だった。
まとめ
アンシュルスは、オーストリア人にとって「解放」であり「隷属」でもあった。人々は新しい旗に歓喜し、同時に古い自由を失った。
それはハプスブルク帝国の崩壊で失われた「アイデンティティ」を、別の形で取り戻そうとした試みだったのかもしれない。
関連する物語:【最後のオーストリア皇帝となったカール1世】帝国崩壊と退位、そして亡命
参考文献
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Evan Burr Bukey, Hitler’s Austria: Popular Sentiment in the Nazi Era, 1938-1945(University of North Carolina Press, 2000)
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Gordon Brook-Shepherd, The Anschluss: The Rape of Austria(Macmillan, 1963)
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Brigitte Hamann, Hitler’s Vienna: A Portrait of the Tyrant as a Young Man(Oxford University Press, 1999)
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Anton Pelinka, Austria: Out of the Shadow of the Past(Westview Press, 1998)
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オットー・フォン・ハプスブルク『私のヨーロッパ』中央公論新社
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石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書
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長谷川公昭『オーストリア現代史—アンシュルスからEU加盟まで』彩流社
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Ian Kershaw, Hitler: 1936-1945 Nemesis(Penguin, 2001)

