16世紀の地中海は、もはやオスマン帝国の海になろうとしていた。
コンスタンティノープルはすでに陥落し、東欧・北アフリカへと勢力を拡大。さらに1569年からの戦役で、キプロス島までもがオスマンの手に落ち、ヨーロッパ全土に衝撃が走った。
「次はどこか? イタリアか、スペイン本土か」恐怖は現実のものとなりつつあった。

この記事のポイント
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1571年、フェリペ2世の命で神聖同盟艦隊が結成される
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1571年10月7日、ドン・フアン率いる連合艦隊がレパント沖でオスマン艦隊を撃破
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戦後、地中海の制海権がキリスト教側に傾き、オスマンの拡大が抑止された
若き総司令官 ― ドン・フアン・デ・アウストリアの登場
連合艦隊を率いることになったのは、フェリペ2世の異母弟、ドン・フアン・デ・アウストリア。わずか24歳、実戦経験は浅かった。
だが、彼には不思議な魅力があった。
高貴さと胆力を兼ね備え、兵を鼓舞する情熱に溢れていたのである。
出陣に際して、ドン・フアンは全艦隊に告げた。
この戦いはキリストの名において行われる。我らの死は、信仰の勝利となるであろう!
寄せ集めの艦隊は、この若き指導者のもとでひとつにまとまった。
レパント沖の決戦 ― 白兵戦の嵐
1571年10月7日、ギリシャ西岸レパント沖。連合艦隊約200隻、兵員8万人が、オスマン帝国艦隊(約250隻、同規模の兵力)と激突した。
戦闘は苛烈を極め、砲撃と銃火、剣戟が入り乱れる。
中央戦線では、スペインの精鋭歩兵「テルシオ」が火縄銃で敵を圧倒し、ついにはオスマンの旗艦を奪取。提督アリ・パシャが討ち取られると、戦況は一気に傾いた。
夕刻にはオスマン艦隊の大半が沈没・拿捕され、150隻以上を失う大敗。一方、連合軍は1万2千人以上の捕虜奴隷を解放し、圧倒的な勝利を収めた。
文学者セルバンテスもこの戦いに従軍し、負傷しながらも「この戦いこそ世界史を変えた」と後世に語った。
勝利の意義 ―「最後の聖戦」が残したもの
レパントの勝利は、軍事的な結果を超える意味を持っていた。
キリスト教世界を覆っていた「オスマンは無敵」という恐怖を打ち砕き、ヨーロッパに新たな希望を与えたのである。しかし、勝利の余韻は長くは続かなかった。
ヴェネツィアは数年後、経済的利益を優先してオスマンと単独講和に踏み切り、神聖同盟は瓦解。
さらに6年後、勝利の英雄ドン・フアンも病に倒れ、短い生涯を閉じる。
それでも、この戦いは後世に「最後の十字軍」と呼ばれ、キリスト教とイスラムの衝突を象徴する出来事となった。
まとめ
レパントの勝利は、確かにキリスト教世界を熱狂させ、スペイン帝国の栄光を決定づけた。
だが、この瞬間こそが絶頂であったともいえる。海上の覇権は依然として複雑な均衡にあり、戦後もオスマン帝国は回復し、東方の脅威は消えなかった。
さらに内政では、膨大な戦費がスペインの財政を圧迫し、黄金の帝国にひそやかな陰りを落とし始めていた。栄光の戦いは「勝利の物語」であると同時に、「衰退への序章」でもあったのだ。
さらに詳しく:
📖 スペイン黄金時代と帝国の陰りを刻んだ王【フェリペ2世とは】
📖 【フェリペ2世と無敵艦隊の敗北】アルマダ海戦とスペイン帝国のほころび
参考文献
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岩崎周一『ハプスブルク帝国』(講談社現代新書)
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Garrett Mattingly, The Armada (1959)
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Fernand Braudel, The Mediterranean and the Mediterranean World in the Age of Philip II
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John Julius Norwich, A History of Venice
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・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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