第二次ウィーン包囲とは?帝都はなぜ滅びず、いかにして輝く都市となったのか

1683年、12万のオスマン軍がウィーンを包囲し、都市は存亡の危機に直面する。

第二次ウィーン包囲のイメージ画像

キリスト教世界の防壁が崩れれば、オスマン帝国は中央ヨーロッパを席巻し、ハプスブルク家の覇権は終焉を迎えることになる。

果たして、ウィーンはこの試練を乗り越え、再び立ち上がることができるのか―

この記事のポイント
  • 1683年、オスマン帝国軍がウィーンを包囲し、攻撃を開始した

  • オスマン軍は墓壁前を完全制圧するも救援軍の力によりウィーンは救われる

  • 戦争の爪痕は深くも、これを契機にウィーンは、華麗な大都市へと生まれ変わった

ヨーロッパの危機とオスマン帝国の野望

17世紀後半、ヨーロッパは混乱のただ中にあった。

三十年戦争の傷跡はいまだ癒えず、ハプスブルク帝国は弱体化。西では太陽王ルイ14世が勢力を伸ばし、北ではプロイセンが頭角を現しつつあった。

その隙を狙ったのが、東方から迫る巨大帝国──オスマン・トルコである。

彼らの狙いは単なる領土拡張ではなかった。キリスト教世界の防壁ウィーンを陥落させ、中央ヨーロッパを支配すること。それは「ヨーロッパの心臓を奪う」ことを意味していた。

皇帝レオポルト1世の決断

1683年7月、オスマン軍12万がウィーンへ進軍。

皇帝レオポルト1世は究極の選択を迫られた。帝都に残るか、それとも退くか。もし皇帝が包囲されれば、交渉の道は閉ざされ、帝国そのものが人質となる。

彼は涙をのんでウィーンを去り、リンツへ避難した。

だが、それは「逃亡」ではなかった。ローマ教皇インノケンティウス11世の支援を取り付け、神聖ローマ帝国の諸侯に救援を呼びかけるための決断だった。

やがてこの選択が、帝都を救う唯一の道となる。

第二次ウィーン包囲、 オスマン帝国との関係を図解 (第二次ウィーン包囲の図解)

城壁に迫る死の影

7月14日、オスマン軍は猛攻を開始。

1万6千の防衛軍と市民は、総勢12万の軍勢に対して必死の籠城戦を続けた。砲撃で城壁は崩れ、地下にトンネルを掘って爆破を試みる敵。石や熱湯を投げ、最後の力で抗う人々。

防衛司令官エルンスト・ルディガー・フォン・シュターレンベルクの指揮のもと、街は飢えと疲弊に耐えながらも持ちこたえた。しかし、もはや陥落は時間の問題と思われた。

救援軍、カーレンベルクの丘に現る

9月12日の暁、ついに運命の日が訪れる。

丘の上に現れたのは、ポーランド王ヤン3世ソビエスキ率いる2万1千の軍勢。さらにバイエルン、ザクセン、ロートリンゲン公カールの軍勢が加わり、総勢8万の連合軍が丘を駆け下りた。

「神は我らと共に!」

ソビエスキ自らが先頭に立ち、騎兵の突撃はワイン畑を揺るがす雷鳴となった。疲弊したオスマン軍は崩壊し、敗走。二ヶ月に及んだ包囲は、ついに解かれた。

戦火の跡に咲いたバロック

ウィーンは救われた。しかし街は瓦礫と化し、人々は深い傷を負った。
それでもハプスブルク家は、この苦難を新しい繁栄の始まりへと変える。

戦火で荒れた丘陵には、壮麗なバロック様式の宮殿が建てられた。ベルヴェデーレ宮殿、シェーンブルン宮殿──
敗北の危機を乗り越えた都市は、やがてヨーロッパ屈指の華麗なバロック都市へと生まれ変わった。

まとめ

第二次ウィーン包囲は、ただの戦いではなかった。
それは、ハプスブルク家がヨーロッパの命運を賭けた闘いであり、同時にウィーンという都市が新たに生まれ変わる契機でもあった。

もし帝都が陥落していれば、ヨーロッパの歴史はまったく違う姿をしていただろう。だが、オスマンの猛攻を退けたことで、瓦礫の街はやがてバロックの華を咲かせる。

戦火の跡にそびえ立つ壮麗な宮殿群は、ウィーンがただの都市ではなく、歴史そのものを映す存在であることを示していた。

そして、その再生の背後には──ひとりの皇帝の決断と祈りがあった。彼の名はレオポルト1世。“忍耐の皇帝”と呼ばれるその人物こそ、帝国の運命を背負い続けることになる。

さらに詳しく:
📖 血と冠の分かれ道|レオポルト1世とハプスブルク分岐の決断
📖 三十年戦争とは ? ハプスブルク帝国を揺るがせた宿命の戦い

参考文献
  • Österreichisches Staatsarchiv(オーストリア国家公文書館)所蔵:レオポルト1世関連文書

  • “Relationes” of Ernst Rüdiger von Starhemberg(ウィーン防衛司令官による報告書)

  • Charles W. Ingrao, The Habsburg Monarchy 1618–1815 (Cambridge University Press, 2000)

  • John Stoye, The Siege of Vienna: The Last Great Trial Between Cross & Crescent (Yale University Press, 2000)

  • Jean Bérenger, A History of the Habsburg Empire 1273–1700 (Routledge, 2014)

  • Robert A. Kann, A History of the Habsburg Empire 1526–1918 (University of California Press, 1974)

  • 中野京子『ハプスブルク家の人びと』(文藝春秋, 2015)

  • 馬場優『ハプスブルク帝国―最後の皇帝と民族の解放』(東京大学出版会, 2017)
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

 

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