1521年4月、ライン川沿いの都市ヴォルムス。重厚な石造りの宮殿に、神聖ローマ帝国の威信が集められていた。
若き皇帝カール5世は、帝国の秩序とカトリックの権威を守るため、一人の修道士を呼び寄せた。その名は――マルティン・ルター。
四年前、ルターは「95か条の論題」を掲げて免罪符の乱売を告発し、民衆の支持を一気に集めた。教皇レオ10世は彼を破門し、今度は皇帝のもとで裁きが下される。
だがこの裁判は、単なる宗教論争ではなかった。「権威か、良心か」――帝国の未来をも左右する、根源的な問いが突きつけられていた。
この記事のポイント
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ルターは著作の撤回を拒み、「聖書と良心」を信仰の根拠とした。
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カール5世はルターを異端と断罪したが、諸侯の支持もあり即時処刑はできなかった。
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ルターの逃亡と聖書翻訳が、宗教改革をさらに拡大させた。
背景――破門された修道士
1517年のヴィッテンベルク。ルターは「人は信仰によって救われる」という確信を掲げ、贖宥状の販売を激しく非難した。
その声は印刷機によって帝国中に広まり、瞬く間に民衆の共感を呼ぶ。
だが教皇庁にとってこれは反逆であり、1520年にはルターを破門。さらに皇帝カール5世は、新帝即位の威信を示すため、ルターを「ヴォルムスの帝国議会」に召喚した。
若干21歳で即位したカール5世。ハプスブルク家の威信を背負い、スペイン・ネーデルラント・イタリアをも抱える大帝国を継いだ彼にとって、宗教統一は帝国の存続に不可欠だった。
ルターは、ただの修道士にあらず。帝国の秩序を揺るがす危険な火種だったのだ。
皇帝との対決――撤回を迫られて
1521年4月17日。議会の広間に集うのは、皇帝をはじめ諸侯や聖職者たち。豪奢な衣装と荘厳な雰囲気の中、ルターは質素な修道服のまま立たされる。
問いは単純だった。
「お前の著作を撤回するか否か」。
答え次第で、彼の運命は決まる。撤回すれば赦しを得られるが、拒めば異端として処刑もあり得た。ルターは一晩の猶予を求め、翌18日。震える声で、しかし明確にこう言い放った。
「聖書と良心に反することはできません。ここに私は立つ。ほかに選びはない。神よ、助けたまえ。」
広間はざわめき、皇帝カール5世は憤然と席を立った。ルターは自らの命を危険にさらしても、信念を曲げることを拒んだのだ。
ルターの逃亡と保護
ヴォルムス帝国議会の結論は「ヴォルムス勅令」として下される。ルターは異端者と宣告され、著作は禁じられ、彼をかくまう者も罪に問われることになった。
だが奇跡的に彼は救われる。
ザクセン選帝侯フリードリヒ賢公が密かに彼をワルトブルク城へ匿ったのだ。ルターはそこで姿を消したかのように見えたが、その幽閉生活の中で聖書のドイツ語翻訳を始める。
「神の言葉」が民衆の言葉で語られたとき、宗教改革は新たな段階に入った。
皇帝の苦悩――秩序か分裂か
カール5世は「信仰の守護者」としてカトリックを守らねばならなかった。だが現実には、諸侯の多くがルターを支持し、帝国の統一は揺らぎ始めていた。
ルターを弾圧すれば諸侯の反発を招き、放置すればカトリックの権威は失墜する。若き皇帝はその板挟みの中で苦しむ。のちにシュマルカルデン戦争、さらには三十年戦争へと続く分裂の火種は、このときすでにまかれていた。
まとめ
ヴォルムス帝国議会は、宗教裁判以上の意味を持った。ルターが示したのは「個人の良心が権威に優先する」という理念である。これは近代的な自由、すなわち「信教の自由」への道を拓いた。
一方で、帝国は一枚岩の秩序を失い、宗教をめぐる分裂と戦争の時代に突入する。信仰の自由の獲得は、同時に流血と混乱を伴ったのだ。
強大な権力に囲まれても、良心に従う一人の声が歴史を変えることもある。ヴォルムス帝国議会は、「一人の信念」が帝国の秩序をも揺るがした瞬間だった。
ルターの言葉は今なお、時代を超えて響く。
関連する物語:【ルターはなぜ扉に打ち付けた?】95か条の論題と宗教改革のはじまり
参考文献
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MacCulloch, Diarmaid. The Reformation: A History. Viking, 2003.
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Brady, Thomas A. German Histories in the Age of Reformations, 1400–1650. Cambridge University Press, 2009.

