フェリペ・プロスペロ (スペイン王太子)

フェリペ・プロスペロは、スペイン・ハプスブルク家の王太子として誕生したが、病弱のままわずか4歳で世を去った。その短い生涯は、近親婚による王家の血統問題と帝国の行方を象徴するものであった。

基本情報

称号 アストゥリアス公
出生
1657年11月28日(マドリード、ブエン・レティーロ宮殿)
死去 1661年11月1日(マドリード)
享年 3
父親 フェリペ4世
母親 マリアナ・デ・アウストリア

人物の背景

フェリペ・プロスペロは、スペイン王フェリペ4世とオーストリア大公女マリアナの間に生まれた長男であり、待望の世継ぎであった。

当時のハプスブルク家は、近親婚を繰り返したことで血統に多くの問題を抱えており、フェリペ・プロスペロも生まれながらに病弱で、慢性的な体調不良に苦しんだと伝えられている。

宮廷は幼い王太子を守るため、護符やお守りを身につけさせ、宗教的な儀式にすがった。だが「未来の王」としての期待とは裏腹に、彼の姿は帝国の不安定さを映し出すものだった。

生涯で起きた主要な出来事

  • 王位継承への期待(1657年)
     スペイン王国は、王フェリペ4世が高齢であり、後継者の誕生が急務であった。フェリペ・プロスペロの誕生は大きな安堵をもたらし、ヨーロッパ各国もその存在を注視した。

  • 病弱な幼年期(1657〜1661年)
     生まれながらの虚弱体質により、宮廷では常に医師と祈祷師が付き添った。お守りや魔除けが服に縫い付けられた肖像画(ディエゴ・ベラスケス作『フェリペ・プロスペロ王子の肖像』)は、その不安な空気を如実に伝えている。

  • 夭折と後継危機(1661年)
     わずか3歳で病死。王位継承権は弟カルロス(後のカルロス2世)に移ったが、彼もまた病弱であり、スペイン・ハプスブルク家の断絶と没落の序章となった。

フェリペ・プロスペロの人生は、きわめて短かった。しかし彼をめぐる人々の祈りと絶望は、ハプスブルク家の血統の限界と、やがて訪れるスペイン帝国の黄昏を象徴する物語となっている。

 

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