【レオポルディーネ】ハプスブルク皇女がブラジル皇后になった理由

その日、リヴォルノの港に吹く風は、皇女の旅立ちを惜しむかのように重かった。

ハプスブルクの宮廷を離れ、遥か南米の地へ──。国家の命運に押し出されるようにして、若きレオポルディーネは、見知らぬ大地へ向けて船出した。

Leopoldina (レオポルディーネ) (レオポルディーネの肖像画)

誰よりも聡く、誰よりも真面目だった彼女の運命は、姉マリー・ルイーズとはまた違う形で、激流に呑まれてゆくことになる。

この記事のポイント
  • 政略で南米ブラジル皇后となった、レオポルディーネ
  • ドン・ペドロによるブラジルの独立宣言を政治的に後押し
  • 若き皇后の死がブラジル国民に遺したのは敬愛だった

ハプスブルクの皇女、ブラジルへ

レオポルディーネ・フォン・エスターライヒは、オーストリア皇帝フランツ1世と皇后マリア・テレジア(女帝とは別人)の間に生まれた皇女である。

彼女はその聡明さで兄妹たちの中でも特に際立っていた。幼き日、姉のマリー・ルイーズと共にシェーンブルン宮殿で過ごした日々。だがその平穏は長くは続かない。

ナポレオンの没落後、ヨーロッパに再び安定をもたらしたウィーン会議。その後の外交戦略を握るオーストリア宰相メッテルニヒは、地球の裏側ブラジルをも視野に入れていた。

旧ポルトガル王室のブラガンサ家が、ナポレオンの侵略を逃れて南米へ宮廷を移していたからである。ポルトガル本国では王政が復活したが、ブラジルには王太子ドン・ペドロが残された。

ブラガンサ家はここに皇女を迎えることで、ヨーロッパとの結びつきを強めようとした。この縁談に白羽の矢が立ったのが、レオポルディーネである。

レオポルディーネの航海

すでにザクセン王家との縁談が進んでいたレオポルディーネ。

しかしブラジル行きが決定したことで、運命は大きく書き換えられる。1817年、彼女はイタリア・リヴォルノ港から出航した。3ヶ月を超える命がけの大西洋航海。

だが、レオポルディーネは動じなかった。「国家の娘」として育てられた彼女は、自らの役割を受け入れ、未知の土地へと毅然と向かったのである。

この航海には、動植物学者スピックスや博物学者マルティウスらも同行していた。レオポルディーネの周囲には、常に文化と学問があった。彼女自身も地理学や言語に通じ、音楽の素養も備えていた。皇女というより、まさに文明の使節だった。

ブラジルの宮廷で

リオデジャネイロに到着したレオポルディーネは、現地の人々から熱狂的に迎えられた。

白い肌の皇女は、ヨーロッパからの女神のように映ったという。ドン・ペドロとの初対面も良好だった。野性的な王子と、理知的な皇女──この対照は、しばしば良き化学反応を生む。

結婚生活の初期、二人はフランス語で会話し、音楽を共に楽しみ、騎馬や狩猟に出かけた。やがて第一子マリア・ダ・グロリアが誕生し、宮廷は幸福に包まれた。

マリア・レオポルディナと子供達 (マリア・レオポルディナと子供達)

しかし、真の意味でのレオポルディーネの功績は、文化伝播だけではない。彼女はブラジルの政治的自立、すなわち独立運動の鍵となったのである。

皇后が支えた独立運動

1822年、ブラジルはポルトガル本国からの独立を決意する。

直接のきっかけは、リスボン政府がドン・ペドロを召還しようとしたことだったが、背後にはレオポルディーネの冷静な分析と助言があった。

彼女は夫に対し、「あなたがこの地に残らなければ、ブラジルは瓦解します」と進言したと伝えられる。まさにこの助言によって、ドン・ペドロは決断を下す。

独立宣言を発し、自らを初代ブラジル皇帝としたのだ。

レオポルディーネは皇后として国民の支持を得るばかりでなく、文化と学問を根づかせ、さらには外交・内政にも意見を述べる稀有な存在だった。彼女の貢献なしに、ブラジル独立はありえなかったともいえる。

愛と裏切りの果てに

だが、この功績に報いるかのような幸福は、彼女には与えられなかった。夫ドン・ペドロは、独立と戴冠を果たしたその年の末から、愛妾ドナ・ドミティラに心を奪われていく。

レオポルディーネは、侮辱にも等しい日々に耐えた。ドミティラが女官として召し出され、宮廷で幅を利かせる中、皇后は表情を変えず、カトリック的忍耐を貫いた。だが、度重なる懐妊、そして夫の公然たる裏切りによって、彼女の身体は次第に蝕まれていく。

1826年、レオポルディーネは第八子を流産。

その後の産褥熱が原因で、静かに息を引き取った。享年29。ウィーンの父や姉からも遠く離れた異国の地で、誰にも看取られることなく、この聡明な皇女は生涯を閉じた。



まとめ

レオポルディーネの死は、ブラジル全土に深い喪失をもたらした。

「我らが皇后」と人々は涙し、その献身と知性を称えた。そして、彼女の遺児ペドロ2世は、母の遺志を継ぐかのように、後のブラジルを安定へと導いていく。

生まれながらに国に仕え、恋も自由も持たぬまま、歴史の一端を支えた皇女。レオポルディーネの人生は、華やかさこそないが、堅実で、静かに国を変えた。

ヨーロッパの端から、大西洋を越えて、帝国の理念を運んだこの娘の名は、今なおブラジルの歴史の中に生き続けている。

さらに詳しく:
📖 ナポレオンの妻は幸せだったのか?マリー・ルイーズという生贄皇女の真実
📖 【神聖ローマ帝国の終焉】とフランツ2世の新しい玉座

参考文献
  • Paulo Rezzutti『Leopoldina: A história não contada』LeYa Brasil, 2017

  • Isabel Lustosa『D. Pedro I: A história não contada』Companhia das Letras, 2006

  • Karl Vocelka『Die Habsburger: Eine europäische Familiengeschichte』C.H. Beck, 2010

  • 『Correspondência pessoal de D. Leopoldina』ブラジル国立公文書館

  • Andreas Otte, “Die österreichischen Erzherzoginnen” Wien, 2002

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