マリー・ルイーズ (フランス皇后)

Empress Marie Louise of the French (1791-1847), c.1812 基本情報まとめ
マリー・テレーズ (出典:Wikimedia Commons Public Domain)

オーストリア皇女として生まれ、ヨーロッパを震撼させた皇帝ナポレオン1世に嫁いだマリー・ルイーズ。その結婚は、愛ではなく政治によって結ばれたものだった。

異国の皇后となった彼女は、フランス帝国の興亡を目の当たりにし、やがて母の国へ帰還。数奇な運命を辿ったハプスブルクの娘の物語である。

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基本情報

称号 フランス皇后/パルマ女公
出生
1791年12月12日(オーストリア・ウィーン)
死去 1847年12月17日(イタリア・パルマ)
享年 56
治世 フランス皇后:1810年〜1814年
伴侶 ナポレオン1世(1810年結婚、のち離別)
アダム・アルベルト・フォン・ノイペルク(非公式)
シャルル・ド・ルフソー伯(公式)
子女
ナポレオン2世(ローマ王)ほか2子(非嫡出)
父親 フランツ2世
母親
マリア・テレジア・フォン・ネアペル=ジツィーリエン

人物の背景

マリー・ルイーズは、神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世の長女として生まれ、幼少期からフランスを“祖国の敵”として育った。だが1810年、ナポレオンの圧力とヨーロッパ外交の情勢により、彼女は帝国を救う「人質」としてフランス皇帝に嫁ぐこととなる。

若き皇后として華やかに迎えられたが、夫婦仲は冷静そのもので、彼女はやがてナポレオンを「暴君」と認識するようになる。1814年にフランス帝国が崩壊すると、彼女は息子ナポレオン2世とともに故郷へ帰還し、オーストリア宮廷の庇護のもとで生涯を送った。

以降は、パルマ公国を与えられ「女公」として統治。ナポレオンへの忠誠よりも、ハプスブルクの一員としての使命を選んだ王女であった。

治世で起きた主要な出来事

  • ナポレオンとの政略結婚(1810年)
    スペインやロシア遠征などで孤立しつつあったフランス帝国が、正統性強化とハプスブルクとの講和のために結んだ婚姻。ヴェルサイユの再興と帝国の継承を担う期待のもと、マリー・ルイーズは“第二皇后”として迎えられた。

  • ローマ王誕生(1811年)
    ナポレオンにとって悲願であった「帝位継承者」が誕生し、ヨーロッパ中に衝撃が走る。ナポレオン2世は幼くしてローマ王と命名されたが、その生涯は短く、帝位に就くことは叶わなかった。

  • 帝国崩壊と帰国(1814年〜1815年)
    ナポレオン失脚後、マリー・ルイーズは夫に従わず、皇后の身分を返上してオーストリアへ帰国。ウィーン会議で彼女はパルマ公国を与えられ、その地で女公として統治を始める。

  • パルマ女公としての再出発(1814年〜1847年)
    フランス皇后とは異なり、パルマでは穏やかで慈悲深い統治者として人々に慕われた。ナポレオンとの縁を断ち、再婚・再々婚も経て56歳で死去。ハプスブルクの娘として、別の形で統治者の道を歩き続けた。

マリー・ルイーズは、「ナポレオンの妻」である前に、「ハプスブルクの娘」であり「パルマの女公」だった。その人生は、帝国と王家のはざまで揺れる、19世紀ヨーロッパ王侯たちの縮図である。

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