絹の裾が石畳をすべった。
群衆の罵声が降り注ぐなか、彼女は背筋を伸ばしたまま、処刑台の階段を上る。マリー・アントワネット──美しく生まれ、美しく憎まれ、美しく死んだ女。
(マリー・アントワネット、未完成の肖像画)
だが、誰が知っていよう。その華やかな衣の下に、七年も「妻」として認められなかった屈辱を隠し持っていたことを。
この記事のポイント
- 1770年、マリー・アントワネットが政略結婚で仏王太子に嫁ぐ
- 国王夫妻がギロチンにかけられ、ルイ17世が革命下で獄中死、王女は孤独な監禁生活を送る
- 唯一生き残ったマリー・テレーズは人質交換という形釈放され、ウィーンに帰還する
憎悪を身にまとわされた「生け贄」
マリー・アントワネットは、フランス革命という時代の転換点において、民衆の怒りを一身に引き受けた存在だった。
オーストリアから14歳で嫁いだ王女は、当初から“異邦の花嫁”とさげすまれ、王妃としての役割を果たせないと非難された。だが、彼女が本当に民衆の怒りの源だったのだろうか?
それとも、より深い問題が、彼女を「罪人」に仕立てたのだろうか。
「処女の王妃」と陰口を叩かれて
結婚初夜の寝室。新婚のふたりは寝台を共有しながら、ただ横たわっていた。
14歳の少女と15歳の少年。けれど宮廷は彼らに、子を産み、王家を継がせよと冷酷に求めた。7年もの間、アントワネットは「まだ処女の王妃」とささやかれ、王妃の資格すら疑われていた。
だが、その原因は彼女ではなかった。
ルイ16世──幼い頃から無口で、内向的で、性に対して極度に臆病な少年だった。彼の体には包茎という障害があり、性交自体が困難だったという。
当時の証言や兄ヨーゼフ2世の手紙によれば、最終的にルイは軽い外科手術(包茎手術※)を受け、ようやく夫婦関係が成立したのは結婚から7年後のことだった。
王妃と呼ばれ、母であることを許されなかった日々
(マリー・アントワネットと子供達)
アントワネットは2男2女の母となったが、うち2人は幼くして死亡。
次男ルイ=シャルル(後のルイ17世)を溺愛し、「シャルル」と名を呼ぶたび、彼女の瞳は柔らかくなった。だが宮廷は、母親らしい素朴な愛情を許さなかった。乳母が与えられ、子どもは教育係に預けられ、王妃が触れることすら制限された。
だからこそアントワネットは、プチ・トリアノンで“偽りの農村生活”を楽しみ、牛の乳を絞り、子どもを抱く時間に憩いを求めたのである。
それは贅沢ではなく、逃避だった。母としての自分だけが、本当の自分だった。
革命と転落の道
1789年、フランス革命勃発。
バスティーユ牢獄が襲撃され、ヴェルサイユ宮殿にも暴徒の足音が響いた。王族たちはパリに強制移送され、「国民の監視下」に置かれた。
(監禁される国王一家)
だが逃げ場を失ったマリー・アントワネットは、希望を捨てていなかった。
1791年、ヴァレンヌ逃亡事件。王妃は変装し、家族でオーストリア国境を目指すが、途中で発覚し逮捕。国王夫妻の信頼は地に堕ちた。
「逃げた王はもう、王ではない」
革命政府の中で、彼女は「外国勢力との内通者」としても疑われた。母国オーストリアがフランスに宣戦布告すればするほど、王妃の立場は悪化する。敵国の姫が、王妃であるという皮肉――。まさに「出自」が彼女を裏切ったのである。
1792年、王政廃止。そして翌年、夫ルイ16世が処刑。「国家の敵」となった王妃は、幽閉され、子どもたちと引き離された。
断ち切られた腕、引き剥がされた心──“監禁”される母子
革命の嵐が吹き荒れるなか、アントワネットの母性は試練を迎える。1792年、王政が廃止され、一家はタンプル塔へと幽閉された。
鉄格子の牢獄で、彼女は残された子どもたちと暮らした。だが、喜びは長く続かない。
やがて当局は、母子を引き離す命令を下す。
ルイ=シャルル、まだ8歳。泣き叫ぶ子どもを抱きしめながら、王妃は何もできなかった。
それは「処刑より残酷な別れ」であった。
その後、彼は監禁下で虐待され、「母は祖国を裏切った」と言わされる。病み、弱り、彼が死ぬのは10歳──母の後を追うようにして。
群衆の罵声の中で、アントワネットは何を想ったか
(断頭台へ向かうアントワネット)
1793年10月、パリの朝。
石畳を馬車がゆっくりときしませながら進んでいた。群衆は怒りの声を上げ、唾を吐き、石を投げる者すらいた。その視線を正面から受け止めながら、彼女はひとり、まっすぐ前を見据えていた。
白い服を選んだのは、単なる潔癖からではない。喪服の黒では、息子にも娘にも「母が屈した」と思われてしまう──それだけは、最後の意地で拒みたかった。
処刑前夜、娘マリー・テレーズに宛てた一通の手紙をしたためた。宛先は、タンプル塔に残された娘、マリー・テレーズ。
書かれていたのは、誇りでも後悔でもない。ただ、母としての最後の言葉だった。「あなたをどれほど愛していたか、それだけは忘れないで──」
この世で自分を覚えていてくれる、たったひとりの子へ。その記憶のなかだけでも、母は生き続けたかった。彼女の死は、怒りによる断罪ではない。
それは、「母であろうとした女の、最後の祈り」だった。
まとめ
憎悪は、理解の裏返しである。
民衆は彼女を“フランス”ではなく“異邦の女”と見た。浪費家として、淫婦として、悪女として罵った。だがその内側にいたのは、理解されぬまま翻弄された一人の少女だった。
王妃という仮面の下で、彼女は確かに“ひとりの母”であり続けた。愛し、失い、祈り、そして死んだ。──子どもたちを遺して。
だが、母が遺した子どもたちには、まだ物語が残されている。次に語られるのは「母の死を超えて生きた、王家の子どもたち」の運命である──
▶︎【マリー・アントワネットの子どもたちの最後】遺された子女たちの運命
さらに詳しく:
📖【フランス革命とは何だったのか】ブルボン家崩壊の衝撃
📖 マリア・テレジア| 女帝の闘いと帝国の再建
参考文献
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フレイザー, アントニア『マリー・アントワネット』上・下巻(中公文庫、2001年)
-
長谷川まゆ帆『マリー・アントワネットの子供たち』(河出書房新社、2006年)
-
スタール夫人『革命下の王女 マリー・テレーズ』手塚リサ訳(白水社、2010年)
-
デュバク, ジャン=クリストフ『ルイ17世の死』中山京子訳(藤原書店、1999年)
-
渡邊昌美『フランス革命と王政の崩壊』(講談社現代新書、1995年)
-
エゴン・C・コルディ『ハプスブルク家の人々』(新書館、1992年)
- (※) アントニア・フレイザー『マリー・アントワネット』上巻参照
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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