マリー・アントワネット (フランス王妃)

Marie-Antoinette- 人物で読む栄光と悲劇
1769年の肖像画(ジョゼフ・デュクルー画)(出典:Wikimedia Commons Public Domain)

マリー・アントワネットは、オーストリア・ハプスブルク家からフランス王家に嫁ぎ、フランス革命という激動の時代を生きた王妃。贅沢の象徴とされつつも、その人生は誤解と悲劇に満ちていた。

基本情報

称号 フランス王妃
出生
1755年11月2日(ウィーン、オーストリア)
死去
1793年10月16日(パリ、コンコルド広場)
享年 37
治世 1774年〜1792年(ルイ16世の治世下)
伴侶 ルイ16世(フランス国王)
子女
マリー・テレーズ(生存した唯一の王女)
ルイ=ジョゼフ(早世)
ルイ17世(幽閉死)
ソフィー(夭折)
父親 フランツ1世(神聖ローマ皇帝)
母親
マリア・テレジア(オーストリア大公妃)
前任者 マリー・レクザンスカ
後継者 王政廃止のため空位

人物の背景

マリア・テレジアの家系図 (16人の子女が生まれた)

家系図:Wikipedia Commons(Public Domain)を基に編集作成:©︎Habsburg Hyakka

マリー・アントワネットは、神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの第15子として生まれた。幼少期はウィーンで育ち、14歳でフランス王太子ルイ(後のルイ16世)と結婚。

フランス宮廷において異国の王妃として孤立しやすく、浪費癖や軽率さが批判される一方で、家族への深い愛情と文化的影響力を持つ人物でもあった。

治世で起きた主要な出来事

  • ヴェルサイユ宮殿での贅沢と批判
     「首飾り事件」などを通じて浪費家として非難され、民衆の怒りを買うこととなる。

  • フランス革命勃発(1789年)
     バスティーユ襲撃を機に宮廷はパリへ移送され、王妃は政治的孤立を深めた。

  • 逃亡と捕縛(1791年)
     ヴァレンヌ逃亡事件で信頼を失い、王政廃止とともに幽閉される。

  • 処刑(1793年)
     革命裁判により死刑判決を受け、ギロチンにかけられた。

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