マリー・アントワネットは、オーストリア・ハプスブルク家からフランス王家に嫁ぎ、フランス革命という激動の時代を生きた王妃。贅沢の象徴とされつつも、その人生は誤解と悲劇に満ちていた。
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【王妃はなぜ憎まれたのか】マリー・アントワネットとフランス革命の悲劇▶
基本情報
| 称号 | フランス王妃 |
| 出生 |
1755年11月2日(ウィーン、オーストリア)
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| 死去 |
1793年10月16日(パリ、コンコルド広場)
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| 享年 | 37 |
| 治世 | 1774年〜1792年(ルイ16世の治世下) |
| 伴侶 | ルイ16世(フランス国王) |
| 子女 |
マリー・テレーズ(生存した唯一の王女)
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| ルイ=ジョゼフ(早世) | |
| ルイ17世(幽閉死) | |
| ソフィー(夭折) | |
| 父親 | フランツ1世(神聖ローマ皇帝) |
| 母親 |
マリア・テレジア(オーストリア大公妃)
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| 前任者 | マリー・レクザンスカ |
| 後継者 | 王政廃止のため空位 |
人物の背景

家系図:©︎Habsburg Hyakka
マリー・アントワネットは、神聖ローマ皇帝フランツ1世とマリア・テレジアの第15子として生まれた。幼少期はウィーンで育ち、14歳でフランス王太子ルイ(後のルイ16世)と結婚。
フランス宮廷において異国の王妃として孤立しやすく、浪費癖や軽率さが批判される一方で、家族への深い愛情と文化的影響力を持つ人物でもあった。
治世で起きた主要な出来事
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ヴェルサイユ宮殿での贅沢と批判(1770年代〜1780年代)
フランス王妃としての華やかな生活は、ヨーロッパの宮廷文化の粋であったが、多くの宮廷費や遊興費が庶民の反感を招いた。特に「プチ・トリアノン」での私的空間と浪費、豪華な衣装や髪型は、深刻な財政難にある国民の目には「無関心と浪費の象徴」と映った。さらに1785年、「首飾り事件」に巻き込まれたことで、実際に無関係であったにもかかわらず「浪費と堕落の王妃」という悪評が決定的となる。
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フランス革命の勃発と王妃の孤立(1789年)
1789年7月14日の「バスティーユ襲撃」を機に革命が勃発。ヴェルサイユの宮廷は暴徒に包囲され、国王一家はパリのチュイルリー宮殿へと強制移送された。議会主導の政治が進む中、ルイ16世が動揺する一方で、マリー・アントワネットは外国勢力と連携し反革命の立場を鮮明にしていたため、いっそう孤立し「オーストリア人の雌狐」として嫌悪された。 -
ヴァレンヌ逃亡事件(1791年)
フランスを脱出し、王政を支持する諸外国と合流する計画を立てるが、途中のヴァレンヌで発覚・捕縛される。逃亡は国民の信頼を完全に失わせ、王政の廃止へと加速させる引き金となった。この事件以降、王妃の影響力は消失し、王家は革命の象徴として攻撃され続けることになる。 -
幽閉・裁判・処刑(1792〜1793年)
1792年に王政は正式に廃止され、王妃は革命政府によりタンプル塔へ幽閉される。翌年1月にはルイ16世が処刑され、10月、革命裁判によってマリー・アントワネットも反逆罪で死刑を宣告される。
1793年10月16日、パリ、コンコルド広場(当時の「革命広場」)でギロチンにかけられた。享年37歳。その最期は、多くの記録者によって「気品ある王妃の最期」と称えられたが、同時に旧体制の終焉をも象徴する出来事であった。

