シャルル突進公の死が導いた結婚【マクシミリアン1世、ブルゴーニュを継ぐ】

突進する3千の騎馬兵。そのただ中で、ダイヤをきらめかせる兜の男が、皇帝を睨んだ。

「娘をやる。だが王にせよ」──ブルゴーニュ公シャルル突進公の野望は、オーストリア辺境伯の息子マクシミリアンに火を点けた。

シャルル突進公 (シャルル突進公)

のちに帝国を西へ導くことになる、あの結婚が、始まろうとしていた。

この記事のポイント
  • マクシミリアンは断絶寸前のブルゴーニュを継承した
  • 市民の反乱で幽閉されるも領地を奪還
  • 婚姻と戦略を用いて、ハプスブルク家は“西の扉”を開いた

帝国の運命を変えた結婚

マクシミリアン1世とブルゴーニュ公女マリアの結婚は、単なる王家の縁組ではない。これはハプスブルク家が中欧の「地味な名家」から、ヨーロッパ全体を巻き込む王朝へと変貌する、歴史の転換点であった。

この政略結婚を境に、ハプスブルク家は西欧の富と文化を吸収し、次世代にはカール5世による「日の沈まぬ帝国」へと結実することになる。

栄光のブルゴーニュ

物語はブルゴーニュの絶頂期に始まる。ブルゴーニュ──それは、ただの地方名ではない。

ワインの都ディジョンを出発点に、南はフランシュ・コンテ、北はフランドル、ブラバント、ネーデルラントにまで版図を広げた一大公国。地中海と北海を結ぶ交易回廊には、金も毛織物も文化も流れ込んだ。

とりわけフランドルの繁栄は目を見張る。英国から羊毛を安く仕入れ、衣料やタペストリーへと仕立てあげ、製品はアフリカやオリエントへも渡った。

いまやブルゴーニュは、ひとつの「帝国」と化していた。しかも、それを統べる君主が、跡継ぎを残さず戦死したのである──。



シャルル突進公の野望

15世紀半ば、フランドルの絢爛たる富を背景にシャルル突進公は独立王国の創設を夢見ていた。北海から地中海まで、フランスでも神聖ローマ帝国でもない「第三の勢力」を築こうとしていたのだ。

シャルル突進公 (シャルル突進公)

だが突進公には、王冠がなかった。

いかに富と軍を誇ろうとも、王の称号なくして国際的な正統性は得られない。皇帝フリードリヒ三世とのトリーア会見において、彼はローマ王位と引き換えに娘マリアを差し出すと申し出る。

贅を尽くした祝宴、仮装行列、舞踏会。ブリュッセルの金銀財宝が皇帝を包囲したが、フリードリヒは動じない。選帝侯による選出を盾に、沈黙を貫いた。

この会見では、皇帝の息子マクシミリアンも同席していた。

金の刺繍を施した若者の礼装が、燭光の中で揺れていた。まだ14の少年である。だがその眼差しは鋭く、シャルル公の娘マリアの運命を見据えているようでもあった。

激昂したシャルルはドイツへ侵攻するが敗れ、さらにスイスでも二度にわたり完敗。騎士の理想を追い求めたはずのその姿は、皮肉にも最期、戦場にて馬から落ちた屍となって発見された。

1477年、ナンシーの戦い──栄光のブルゴーニュは、その日、潰えた。

マクシミリアンとマリアの結婚

マリアは16歳。父を喪い、国家の命運を担う立場に立たされた彼女は、毅然として民衆に語りかけた。「わたくしはブルゴーニュを裏切りません」と。

王女でありながら政治家の覚悟を示したこの若き女性は、速やかにマクシミリアンとの結婚を選ぶ。

婚姻は政治的妥協ではなかった。二人はすぐに惹かれ合い、言葉の壁を超えて通じ合った。フランス語、ドイツ語、ラテン語、手紙、音楽──

あらゆる手段で愛を育んだ二人は、ほどなくして嫡男フィリップと娘マルガレーテをもうけた。その名は、やがてヨーロッパ全土に響き渡ることとなる。

フランスの策謀と初陣の勝利

ルイ11世はこの婚姻を「奪略」と見なし、激しく反発する。

軍を動かし、フランスとの国境地帯を制圧する一方、ガンやブリュージュなどの都市に金をばら撒き、親仏派を養成。内部からマクシミリアンの権威を崩そうとした。

だが若きブルゴーニュ公マクシミリアンは、これを見抜いていた。

ウィーンからの家臣と地元の騎士を率いてギネガテの戦いに挑み、初陣にして見事な勝利を収める。彼の勇猛と騎士道精神は瞬く間に民衆の心を掴み、「中世最後の騎士」と呼ばれる所以となる。

マリアの死と幽閉の屈辱

マリー(マクシミリアンの皇妃) (マクシミリアンの愛妻となったマリー)

しかし幸福は長く続かなかった。

1482年、マリアは落馬事故で命を落とす。マクシミリアンにとって、これはただの妻の死ではなかった。彼女はブルゴーニュ統治の正統性そのものだったからである。

マリアの死後、ガンの市民は反旗を翻した。

「マリアが死んだ今、彼はもはや公ではない」と。マクシミリアンは都市に監禁され、鉄格子の部屋に数ヶ月間幽閉された。彼の支配権は失墜し、娘マルガレーテはフランス王に奪われた。

奪還交渉は難航し、のちに結婚同盟として形式的に返されたが、父子は長らく引き離されたままだった。



巻き返しと西方拠点の確保

それでもマクシミリアンは立ち上がる。

忍耐強く味方を募り、都市を一つひとつ説得し、あるいは包囲して陥落させ、ネーデルラントを再び掌中に収める。反抗的だった都市には制裁を加えたが、臣民として受け入れることで統治を貫いた。

この過程で、彼の地位は「一時的な婿」から「後見としての正統なる君主」へと変化する。そして彼は、嫡男フィリップが成長するまでの西欧世界の守護者として、その地を統治し続けた。

ちなみにブルゴーニュとオーストリア──ふたつの異なる文化を融合させたのも、この結婚の遺産であった。

マクシミリアンは、フランドルからもたらされた絵画・写本・建築技術をウィーンへ導入し、宮廷文化の洗練に大きな影響を及ぼした。ウィーン楽派やアルブレヒト・デューラーらとの交流も、この時代に始まる。

まとめ

この結婚の成果は、子フィリップの婚姻政策に引き継がれる。

一人の皇子が手に入れたのは、富と文化の結晶たるブルゴーニュ公国であった。しかしそれは、甘美な蜜であると同時に、帝国の針でもあった。

継承された広大な領地は、息子フィリップ美公、そして孫カール5世の手によって、やがてヨーロッパを覆う大帝国へと化していく。だが、それはハプスブルクにとって「統べるには重すぎる遺産」となる運命でもあった。

結婚によって始まった西への拡張は、果たして祝福か、それとも試練だったのか──その問いの答えは、次の世代の歩みに託された。

さらに詳しく:
📖 【愛と帝国を遺した王妃】マリア・ブルゴーニュの悲しい輿入れ
📖 マクシミリアン1世と婚姻政策|結婚で築かれた帝国
📖 【美公と呼ばれたブルゴーニュ公】フェリペ1世と短すぎた即位

参考文献
  • Richard Vaughan, Charles the Bold, Boydell Press, 2002.

  • Joseph Held, Habsburg Empire 1273–1918, Holt, Rinehart and Winston, 1966.

  • Jean-Marie Cauchies, Marie de Bourgogne, Tallandier, 2013.

  • Peter Moraw, Von offener Verfassung zu gestalteter Verdichtung, Oldenbourg, 1985.

  • 曽根良昭『マクシミリアン一世とハプスブルク帝国の黎明』、創文社、2007年

  • ハプスブルク家 (江村洋著)
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・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
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