ナポレオン1世とハプスブルク皇女マリー・ルイーズの間に生まれた唯一の嫡出子、ナポレオン2世。
生まれながらにして「ローマ王」と呼ばれ、皇位継承者として期待されたが、その運命は短く、儚かった。ナポレオン帝国の栄光と悲劇を象徴するその生涯は、名ばかりの即位“皇帝であったことのない皇帝”の物語である。
基本情報
| 称号 |
フランス皇帝(名目上:ナポレオン2世)/ローマ王
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| 出生 | 1811年3月20日(フランス・パリ) |
| 死去 |
1832年7月22日(オーストリア・ウィーン)
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| 享年 | 21 |
| 治世 |
1815年6月22日〜7月7日 (※)
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| 父親 | ナポレオン1世(フランス皇帝) |
| 母親 |
マリー・ルイーズ(ハプスブルク家の皇女)
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| その他 |
オーストリアでは「ライヒシュタット公」として育てられた
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(※) 即位はしたが、実際に統治はしていないため“治世”とはされないことが多い
人物の背景
ナポレオン2世は、フランス皇帝ナポレオン1世の絶対的な後継者として生まれた。誕生と同時に「ローマ王」と宣言され、帝国の未来を担う存在として期待を一身に背負う。
しかし1814年、ナポレオンの退位により、母マリー・ルイーズとともにオーストリアへ移され、“ボナパルト”ではなく、“ハプスブルクの一員”として育てられた。父の愛に恵まれず、祖
父フランツ2世の庇護のもとで生きた彼は、自らの出自と運命の間で心を引き裂かれていく。名目上は「ナポレオン2世」として即位宣言されるものの、実際には帝位につくことなく、若くして病死した。
治世で起きた主要な出来事
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“皇帝”としての即位(1815年6月)
ワーテルローの戦いで敗れたナポレオンが再退位を表明した際、息子ナポレオン2世が「フランス皇帝」と宣言された。しかしこれは、実権を持たない一時的な政治的措置にすぎず、彼は実際に統治を行うことはなかった。 -
オーストリアでの亡命生活(1815年〜1832年)
フランスから切り離され、ウィーン宮廷で「ライヒシュタット公」と呼ばれ育つ。軍事教育を受け、父のような戦略家となる夢を抱くが、病弱であった彼はその志半ばで挫折する。 -
病による早すぎる死(1832年)
結核を患い、21歳の若さで死去。遺体はウィーンに埋葬されるが、のちにナポレオン3世の嘆願でパリのアンヴァリッド廟へ移葬された。
ナポレオン2世は、“帝国の後継者”でありながら、その夢を果たすことなく若くして世を去った。歴史には、名ばかりの「皇帝」として記され、ボナパルト家の栄光と悲劇を象徴する存在となっている。

