ナポレオン2世 (名目上のフランス皇帝)

Napoléon II 基本情報まとめ
Napoléon II (出典:Wikimedia Commons Public Domain)

ナポレオン1世とハプスブルク皇女マリー・ルイーズの間に生まれた唯一の嫡出子、ナポレオン2世。

生まれながらにして「ローマ王」と呼ばれ、皇位継承者として期待されたが、その運命は短く、儚かった。ナポレオン帝国の栄光と悲劇を象徴するその生涯は、名ばかりの即位“皇帝であったことのない皇帝”の物語である。



基本情報

称号
フランス皇帝(名目上:ナポレオン2世)/ローマ王
出生 1811年3月20日(フランス・パリ)
死去
1832年7月22日(オーストリア・ウィーン)
享年 21
治世
1815年6月22日〜7月7日 (※)
父親 ナポレオン1世(フランス皇帝)
母親
マリー・ルイーズ(ハプスブルク家の皇女)
その他
オーストリアでは「ライヒシュタット公」として育てられた

(※) 即位はしたが、実際に統治はしていないため“治世”とはされないことが多い

人物の背景

ナポレオン2世は、フランス皇帝ナポレオン1世の絶対的な後継者として生まれた。誕生と同時に「ローマ王」と宣言され、帝国の未来を担う存在として期待を一身に背負う。

しかし1814年、ナポレオンの退位により、母マリー・ルイーズとともにオーストリアへ移され、“ボナパルト”ではなく、“ハプスブルクの一員”として育てられた。父の愛に恵まれず、祖

父フランツ2世の庇護のもとで生きた彼は、自らの出自と運命の間で心を引き裂かれていく。名目上は「ナポレオン2世」として即位宣言されるものの、実際には帝位につくことなく、若くして病死した。

治世で起きた主要な出来事

  • “皇帝”としての即位(1815年6月)
    ワーテルローの戦いで敗れたナポレオンが再退位を表明した際、息子ナポレオン2世が「フランス皇帝」と宣言された。しかしこれは、実権を持たない一時的な政治的措置にすぎず、彼は実際に統治を行うことはなかった。

  • オーストリアでの亡命生活(1815年〜1832年)
    フランスから切り離され、ウィーン宮廷で「ライヒシュタット公」と呼ばれ育つ。軍事教育を受け、父のような戦略家となる夢を抱くが、病弱であった彼はその志半ばで挫折する。

  • 病による早すぎる死(1832年)
    結核を患い、21歳の若さで死去。遺体はウィーンに埋葬されるが、のちにナポレオン3世の嘆願でパリのアンヴァリッド廟へ移葬された。

ナポレオン2世は、“帝国の後継者”でありながら、その夢を果たすことなく若くして世を去った。歴史には、名ばかりの「皇帝」として記され、ボナパルト家の栄光と悲劇を象徴する存在となっている。



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