オーストリア=ハンガリー帝国の最後の皇太子として生まれ、帝国崩壊後は亡命者として育ったオットー・フォン・ハプスブルク。皇位を失っても政治とヨーロッパへの情熱を失わず、のちに欧州統合の象徴的人物となった。彼の生涯は、ハプスブルク家の終焉と、ヨーロッパの再生を結ぶ架け橋である。
基本情報
| 称号 |
オーストリア=ハンガリー帝国皇太子(名目上)/欧州議会議員
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| 出生 |
1912年11月20日(オーストリア・レヒテンシュタイン宮)
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| 死去 | 2011年7月4日(ドイツ・プッルハ) |
| 享年 | 98 |
| 治世 |
皇太子として:1916年〜1918年(名目上)
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| 伴侶 |
レジーナ・フォン・ザクセン=マイニンゲン
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| 子女 |
カール・フォン・ハプスブルク(現家長)ほか6人
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| 父親 | カール1世(オーストリア皇帝) |
| 母親 | ツィタ・フォン・ブルボン=パルマ |
| 後継者 |
カール(帝位喪失後、家長位を継承)
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人物の背景
オットー・フォン・ハプスブルクは、第一次世界大戦のさなか、帝国最後の皇帝カール1世と皇后ツィタの長男として誕生した。
1916年に父が即位すると、わずか4歳で皇太子となるが、1918年に帝国は崩壊。家族とともにスイスへ亡命し、のちにスペイン・ベルギー・アメリカなどを転々とした。若くしてヨーロッパ政治に関心を示し、ナチスの台頭を批判。第二次世界大戦中は反ナチ運動を支援し、ハプスブルク家の名誉回復に尽力した。
戦後は皇位継承権を放棄し、オーストリアへの帰国を許可される。以降はハプスブルク家の名を背負いながらも、政治家・思想家としての道を歩み、ヨーロッパ統合を理念とする活動に生涯を捧げた。
治世で起きた主要な出来事
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帝国崩壊と亡命(1918年〜)
帝国崩壊とともに国外追放され、幼少期から亡命生活を送る。母ツィタとともに「亡命皇太子」として教育を受け、祖国再建の理想を抱く。 -
反ナチ運動と民主主義への傾倒(1930〜1940年代)
ヨーロッパ諸国でハプスブルク家の名誉を守りながら、ナチス・ドイツに抵抗。ハプスブルク君主制復活よりも、自由主義と欧州連帯を重視する思想へ転換していった。 -
欧州議会議員としての活動(1979〜1999年)
バイエルン州から欧州議会議員に選出。ヨーロッパ統合、東欧民主化、冷戦終結後のEU拡大に尽力した。
特にハンガリー解放を支援し、1989年にオーストリア=ハンガリー国境の鉄条網が切断された「汎ヨーロッパ・ピクニック」では重要な仲介役を果たした。 -
ハプスブルク家の再興と晩年(1990〜2011年)
皇室の家長として伝統を守りつつ、政治と宗教の調和を説く。2011年、ドイツで死去。ウィーンのカプツィーナー教会に葬られ、ハプスブルク家の最後の“国葬”が行われた。
オットー・フォン・ハプスブルクは、王冠を持たぬまま「ヨーロッパの皇太子」と呼ばれた。彼の理想は、帝国の再興ではなく、国境を越えた統合と平和にあった。没落した王家の名に、新しい意味を与えた知性と信念の人である。

