オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世と皇妃エリザベートの一人息子。帝国の未来を担うはずだったが、心の病と時代の重圧の中で自ら命を絶ち、「マイヤーリンク事件」として世に知られる悲劇を残した。
基本情報
| 称号 |
オーストリア=ハンガリー帝国皇太子(皇位継承者)
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| 出生 |
1858年8月21日(ウィーン郊外・ロクセンブルク城)
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| 死去 | 1889年1月30日(マイヤーリンク) |
| 享年 | 30 |
| 父親 | フランツ・ヨーゼフ1世 |
| 母親 | エリザベート |
| 伴侶 |
ステファニー・フォン・ベルギエン(ベルギー王女)
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| 子女 |
エリーザベト・マリー(“赤い大公女”として知られる)
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人物の背景
ルドルフは、母エリザベートの自由主義的精神と、父フランツ・ヨーゼフの保守的体制のはざまで育った。幼少期から聡明で学問を好み、科学や自由主義思想に傾倒したが、その進歩的な考えは厳格な宮廷の空気に馴染まなかった。
若き日の彼はヨーロッパ各地を旅し、芸術・哲学に通じた理想主義者として知られたが、政治的には父帝の期待に応えることができず、次第に孤立していった。
皇太子としての責務と、個人としての自由のあいだで苦悩した彼は、精神的に不安定になり、晩年にはうつ病と神経衰弱に苦しんだ。
治世で起きた主要な出来事(および関連史実)
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自由主義思想との衝突(1870年代〜1880年代)
皇太子として帝国の近代化を理想に掲げたルドルフは、報道の自由や民族自治を支持する立場を取った。これが保守的な宮廷・軍部と対立を招き、彼の政治的影響力は次第に封じられた。 -
皇太子妃ステファニーとの不和(1880年代)
1878年にベルギー王女ステファニーと結婚するが、政治観の違いと性格の不一致により、次第に関係は冷却化。1883年の娘誕生後、夫婦仲は決定的に悪化した。 -
マイヤーリンク事件(1889年)
1889年1月30日、ウィーン郊外のマイヤーリンクの狩猟館で、ルドルフは17歳の男爵令嬢マリー・ヴェッツェラと共に遺体で発見された。帝国を震撼させたこの事件は「心中」あるいは「自殺」とされ、ハプスブルク家の正統継承に深い影を落とした。
その死により、皇位継承権は父帝の弟カール・ルートヴィヒを経て、その孫カール(のちのカール1世)へと移ることになる。
ルドルフの死は、ハプスブルク帝国の精神的転換点となった。彼の理想は時代を先取りしていたが、現実の帝国はそれに応えることができなかった。自由と伝統、個と国家――その裂け目の中で彼が倒れたことは、帝国の「黄昏」の予兆でもあった。

