オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の母親であり、エリザベート(シシィ)の姑にあたるゾフィー・フォン・バイエルン。
温和な外見とは裏腹に、宮廷政治の実権を握った冷徹な「ハプスブルクの母」は、若き皇后エリザベートにとって最大の“敵”であった。帝国の秩序と権威維持のためなら、容赦のない手段を取る厳格な女性だった。
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基本情報
| 称号 |
オーストリア大公妃/ハンガリー王妃(母后)
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| 出生 | 1805年1月27日(ドイツ・ミュンヘン) |
| 死去 |
1872年5月28日(オーストリア・ウィーン)
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| 享年 | 67 |
| 治世 | ヴィッテルスバッハ家(バイエルン) |
| 伴侶 |
フランツ・カール・フェルディナント・フォン・エスターライヒ
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| 子女 | フランツ・ヨーゼフ1世(皇帝) |
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マクシミリアン・フォン・メキシコ(メキシコ皇帝)ほか2人
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| 父親 | マクシミリアン1世ヨーゼフ(バイエルン王) |
| 母親 | カロリーネ・フォン・バーデン |
人物の背景
ゾフィーは、バイエルン王マクシミリアン1世の王女として生まれ、幼少期より政治的教育を受けた。ウィーン宮廷に嫁ぐと、義父フランツ1世や皇帝フェルディナント1世に近侍し、穏健ながらも明晰な政治感覚で信頼を集める。
1848年の革命が帝国を揺るがした際、実質的に宮廷を掌握し、若きフランツ・ヨーゼフを即位へと導いた。以後も息子の政治顧問として強大な影響力を持ち、帝国の伝統とカトリック信仰の擁護者として保守的政策を後押しした。
治世で起きた主要な出来事(※母后としての影響)
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1848年革命とフランツ・ヨーゼフの即位
皇帝フェルディナント1世の退位を促し、息子フランツ・ヨーゼフを即位させる。実質的な“帝国の女宰相”として政治を陰で主導した。 -
エリザベート皇妃との確執(1850年代〜)
息子の妻エリザベート(シシィ)の自由主義的な性格と宮廷礼法をめぐり、激しく対立。特に孫の養育権をめぐる争いは有名。 -
メキシコ皇帝マクシミリアンの悲劇(1867年)
次男マクシミリアンがメキシコ皇帝として処刑される報に深く打ちのめされ、晩年は公務から退き信仰に生きた。
ゾフィーは、愛と支配のあわいに立った母として、ハプスブルク帝国の安定を支えた“静かな権力者”であった。その統制のもとに生まれた皇帝の時代は、やがて彼女の影が消えるとともに新しい価値観へと移ろっていった。

