カトリック枢機卿でありながら、国家の利益を第一としたリシュリュー (アルマン・ジャン・デュ・プレシ) は、フランスを絶対王政へ導いた冷徹な政治家である。王の影として、三十年戦争や国内反乱を巧みに制し、「赤衣の宰相」と呼ばれた。
基本情報
| 称号 | 枢機卿(Cardinal)/フランス宰相 |
| 出生 | 1585年9月9日(フランス・パリ) |
| 死去 | 1642年12月4日(フランス・パリ) |
| 享年 | 57 |
| 治世 |
ルイ13世(1610〜1643年)の宰相(1624〜1642年)
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| 伴侶 | なし(聖職者) |
| 子女 | なし |
| 父親 |
フランソワ・デュ・プレシ(プワトゥー貴族)
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| 母親 | スザンヌ・ド・ラ・ポルト |
| 後継者 | ジュール・マザラン(枢機卿) |
人物の背景
リシュリューは小貴族の家に生まれ、当初は軍人志望であったが、家の都合で聖職の道へ進んだ。若くして司教となり、その卓越した弁舌と知略で宮廷に台頭する。
ルイ13世の母マリー・ド・メディシスの信任を得て政界入りし、1624年に宰相に就任。宗教よりも「国家」を優先する合理的な政治観を掲げ、「国家理性」の理念を体現した。
その冷徹さと権謀術数から敵も多かったが、彼の改革がのちのルイ14世による「太陽王の絶対王政」を可能にしたといえる。
治世で起きた主要な出来事
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ユグノー戦争の終結(1627〜1629年)
プロテスタント勢力ラ・ロシェルを包囲し降伏させることで、宗教的内乱を収束。王権の優越を確立した。 -
貴族反乱の鎮圧
宮廷貴族たちの陰謀を徹底的に粛清し、王権に従属させた。反リシュリュー派の有力者モンモランシー公を処刑したことは象徴的である。 -
アカデミー・フランセーズ創設(1635年)
フランス語の統一と文化的権威を確立するため、知識人たちを組織。国家による文化政策の始まりとなった。 -
三十年戦争への介入(1635年〜)
カトリック国でありながら、ハプスブルク家に対抗するためプロテスタント側で参戦。フランスを国際政治の主役へ押し上げた。
リシュリューの政治は冷酷と恐れられたが、その根底には「王なき国家は混乱に沈む」という確固たる信念があった。彼の築いた中央集権体制は、のちのブルボン絶対王政の礎となり、ヨーロッパの権力地図を塗り替えた。

