フランツ・ヨーゼフ1世 (オーストリア皇帝)

Franz Joseph I of Austria フランツヨーゼフの肖像画 基本情報まとめ
(出典:Wikimedia Commons)

18歳という若さで皇帝となり、その後68年もの間オーストリア帝国を支え続けたフランツ・ヨーゼフ1世。戦争や反乱、家族の悲劇といった多くの困難に直面しながらも、まじめに仕事に取り組み、国の安定のために尽くした。

彼の人生は、愛や苦しみ、強さとやさしさが交差する、まさに「ハプスブルク家の最後の花」のようなものだった。

基本情報

主な称号 オーストリア皇帝
ハンガリー王
ボヘミア王
スアヴォニア王
クロアチア王
スアヴォニア王
ガリツィア=ロドメリア王
ロンバルド=ヴェネト王
出生 1830年8月18日(シェーンブルン宮殿)
死去
1916年11月21日(シェーンブルン宮殿)
享年 86
治世 1848年〜1916年(オーストリア皇帝)
1848年〜1916年(ハンガリー王)
伴侶
子女 ゾフィー
ギーゼラ
ルドルフ (オーストリア皇太子)
マリー・ヴァレリー
父親 フランツ・カール大公
母親 ゾフィー・フォン・バイエルン
前任者 フェルディナント1世 (叔父)
後継者 カール1世

人物の背景

Family tree of Emperor Franz Joseph I, showing Empress Elisabeth (Sisi), Crown Prince Rudolf, his brothers Maximilian and Karl Ludwig, Rudolf’s daughter Elisabeth, and the line leading to Archduke Franz Ferdinand. フランツ・ヨーゼフ1世を中心に、シシィ、ルドルフ、マクシミリアン、フランツ・フェルディナントへ続くハプスブルク家の家系図。

© Habsburg-Hyakka.com

フランツ・ヨーゼフは、父フランツ・カールと母ゾフィーの長男として生まれた。母ゾフィーはとても頭がよく、息子に厳しく帝王としての教育をおこなった。フランツ・ヨーゼフは若い頃に軍の経験を積み、1848年、18歳で皇帝となった。

彼はすぐに国の内外で多くの問題に直面した。革命や戦争、さまざまな民族の争いなどがありながらも、冷静に、まじめに政治を行い、国の安定に努めた。とても働き者で、毎朝4時に起きて仕事を始めていたと言われている。

一方で、結婚相手であるシシィとの結びつきにはドラマがあった。

1853年、フランツ・ヨーゼフは本来お見合いの相手だった姉ではなく、妹シシィを一目で気に入り、母ゾフィーの反対を押し切って結婚した。これは彼の人生でただ一度、母に逆らった出来事だったと言われる。

治世で起きた主要な出来事

  • ハンガリー反乱と暗殺未遂(1849〜1853)

即位直後、ハンガリーでの反乱を軍で鎮圧。その報復とみられる暗殺未遂事件に遭い、重傷を負った。

  • 普墺戦争とドイツ連邦からの離脱(1866)

プロイセンとの戦争に敗れ、オーストリアはドイツの盟主の地位を失い、以後ドイツ統一から外れることとなる。

  • アウスグライヒ(二重帝国体制)の成立(1867)

ハンガリーと妥協し、二重帝国体制を導入。オーストリア帝国とハンガリー王国が1人の皇帝を共有する体制となった。

  • 言語令をめぐる対立と混乱(1880〜1897)

スラヴ系民族の権利を拡大するために、地方で複数の公用語を認めたが、ドイツ系住民の強い反発を招き、内閣総辞職や暴動が発生した。

  • ウィーン市の都市改造と文化開花(1857〜)

城壁を取り壊して環状道路を整備し、オペラ座や議会などの公共施設を建設。ウィーンは多民族文化が花開く都市へと成長した。

  • 皇室の相次ぐ悲劇(1867〜1898)

弟マクシミリアンの銃殺、皇太子ルドルフの心中、皇后シシィの暗殺といった家族の悲劇に見舞われた。

  • 第一次世界大戦の勃発(1914)

甥フランツ・フェルディナントの暗殺をきっかけに帝国はセルビアへ宣戦布告。第一次世界大戦が始まり、帝国の終わりが近づいた。

タイトルとURLをコピーしました