【産むたびに命を削った女たち】王家に生きた“母”の宿命

白い産着に包まれた小さな棺が、宮廷の長い廊下を静かに進む。その中に横たわっていたのは、スペイン王妃マルガリータ・テレサ──わずか21歳でこの世を去った。

レオポルト1世の妃 マルガリータテレサと娘マリア・アントニア (マルガリータ・テレサと娘)

原因は、4度目の出産後の産褥熱だった。

この記事のポイント
  • 繰り返される出産の果てに、静かに散っていった若き命
  • 帝国の未来を託され、命ごと捧げられた王妃の身体には相当な負担がかかっていた
  • それは国家の期待と制度に取り込まれた、逃れようのない宿命だった

「出産=国家的責務」

王家の女性にとって「出産」は単なる家庭の出来事ではなかった。

それは王朝の存続を左右する国家的責務であり、政治そのものであった。とりわけハプスブルク家では、「正統な継承者を生むこと」は、王妃に課された最大の使命とされていた。

中でも女帝と呼ばれたマリア・テレジアは、16人もの子を産み育て、その都度、宮廷では壮麗な祝賀と同時に、妃の命への静かな懸念が交錯したという。

出産が喜びの行事であったことは間違いない。だが、王妃にとってそれは、政治的期待と身体的犠牲の交差点だった。

産褥死という現実

マルガリータ・テレサが4度目の出産の末に命を落としたように、出産は当時の女性にとって極めて危険なものであった。感染症、過剰な出血、胎盤遺残──

現代では防げる死因が、当時の王宮では日常であった。

実際、17〜18世紀のヨーロッパでは、妊産婦の20人に1人が死亡したという推定もある( 地域により異なるが、一般的に高い)。

しかも王家の妃たちは、何度も出産を求められ、短い間隔で妊娠を繰り返すことも多かった。体力の回復が追いつかぬまま次の妊娠に入り、命を縮めていったのだ。

王妃であっても医療の限界を超えることはできず、むしろ政治的圧力によってさらに過酷な状況に置かれることも少なくなかった。



王家の出産制度と“助産”の現場

王家では、出産は厳格な儀式として管理されていた。

とくにフランスやオーストリアでは、王妃の出産に際し、多くの貴族や侍医、助産師が立ち会うことが求められた。

たとえばマリー・アントワネットは、第一子誕生時に寝台の周囲を何十人もの視線に囲まれながら出産する羽目になった。プライバシーなどという概念は存在しなかった。

Marie Antoinette and children (マリー・アントワネットと子供たち)

助産師は王妃に付き添う重要な存在だったが、医師との連携が取れていたとは限らない。

助産が女性の経験知に頼る分野であったのに対し、医師たちは男性であり、「学問と技術」で統治された存在として医療の主導権を奪いつつあった。

その間で揺れたのが、出産という“最も人間的な奇跡”を求められた王妃たちだった。

帝国に求められた“女の身体”

女性の身体は「帝国の器」として扱われた。そこでは“感情”や“苦痛”ではなく、“継承”という冷厳な論理が優先された。

後の皇帝カール6世の母であり、マリア・テレジアの祖母でもある皇后エレオノーレ・マグダレーナは、10人の子を産んだにもかかわらず、その名は歴史の陰に埋もれている。だが彼女が産んだ子らが皇帝・王女となることで、帝国はその形を保ったのである。

国家は王妃に「命をかける覚悟」を暗黙に強いた。それは“愛する子を育てる”ためではなく、“国家を継ぐ器”としての覚悟だった。

儀式と迷信──“産む力”を信じて

王妃の出産は神に捧げる儀礼でもあった。出産前には特定の聖人に祈りを捧げ、安産のお守りを肌身離さず持つのが常だった。

とくに聖マルガリタや聖アンナは「産婦の守護聖人」とされ、ロザリオや聖遺物が寝室に備えられたという。(※2)

火を絶やさぬよう灯す蝋燭の数、出産時に使う布の色、さらには「満月の夜には産気づきやすい」といった民間信仰まで、王妃の産褥室には多くの“祈り”と“迷信”が満ちていた。

生と死の境にある王妃の身体に、人々は医学だけでなく“神意”を見ようとしたのである。

命をかけた産声──マルガリータ・テレサの最期

青いドレスのマルガリータ王女 (幼い頃のマルガリータ・テレサ)

スペイン・ハプスブルク最後の花と称されたマルガリータ・テレサは、15歳で神聖ローマ皇帝レオポルト1世の元に嫁いだ。

彼女はその美貌と華奢な体で愛され、祝福された結婚生活を送ったが、4度の妊娠・出産の末、わずか21歳でこの世を去る。

死因は産褥熱。感染症を防ぐ知識も技術も乏しかった時代、これはあまりにも典型的な最期だった。レオポルト1世は深く悲しみ、彼女の死を記念する礼拝堂を建てさせたとも伝わる。

だが、宮廷はすぐに次の妃候補の選定に移り、帝国はその歩みを止めなかった。王妃の死は、“一つの使命の終わり”として、静かに処理された。



まとめ

マルガリータ・テレサが逝ったとき、彼女の棺を囲んだ人々は、その若さを惜しみ、美しさを思い、そして何よりも「まだ終わっていなかった使命」に胸を痛めただろう。

だが帝国は、そんな感傷に足を止めることはなかった。王妃の身体は、王朝の存続を託された“器”として扱われ、その死さえも静かに制度の中に吸い込まれていく。

彼女は特別ではない。王妃たちは、命を削りながら帝国の礎を築いていった。何人もの子を産み、育て、時にその命を失いながらも、名を残すことすら叶わなかった者も少なくない。

「産むこと」は、ただの母となる経験ではなかった。それは国家の期待と制度に取り込まれた、逃れようのない宿命だったのである。

そして、その運命の果てに横たわっていたのが──四人の子を遺し、若くして産褥に倒れた「王妃マルガリータ・テレサ」の姿だった。

参考文献
  • 河原温『女たちの近世ヨーロッパ』岩波書店、2019年(p.186-190)

  • 渡辺雅子『ヨーロッパの王妃たち』講談社選書メチエ、2002年

  • (※) Sara Read, Birthing Bodies in Early Modern England, Palgrave, 2015

  • L. L. Owens, Medical Care in the Royal Courts of Europe, 2009

  • (※2) Ulinka Rublack (ed.), Oxford Handbook of Early Modern European History, Oxford University Press, 2015

  • Barbara Stollberg-Rilinger, Maria Theresia: Die Kaiserin in ihrer Zeit, C.H. Beck, 2017(ドイツ語)

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