なぜ戦わずに帝国を築けたのか?【マクシミリアン1世と“結婚外交”の真実】

馬上の騎士が、血のにじむ甲冑を脱ぎ捨て、王妃との寝室へと向かう。だが、その手には剣ではなく、婚姻契約書が握られていた。

後世「最後の騎士」と称されたマクシミリアン1世。戦場ではなく婚姻の場にこそ、彼は帝国の未来を賭けたのである。

Maximilian I (マクシミリアン1世の肖像画)

本稿では、ハプスブルク家の拡大と存続の要となったこの男の婚姻政策、そしてその背後にある母子の物語、さらに若き王妃マリアとの愛と喪失の記憶を描き出す。

この記事のポイント
  • マクシミリアン1世は、婚姻政策を駆使してハプスブルク家の勢力を拡大
  • 自身はブルゴーニュ公国のマリーと結婚し、ネーデルラントを獲得
  • その後、スペイン王家との婚姻を成功させ、孫のカール5世がヨーロッパの覇者となった
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皇帝マクシミリアン1世という男

1459年、ウィーナー・ノイシュタットに生まれたマクシミリアンは、神聖ローマ皇帝フリードリヒ3世とポルトガル王女エレオノーレの子である。

母は南国ポルトガルの洗練された文化と誇りを身にまとい、沈黙と粗野に支配されたウィーン宮廷に耐えながら、息子に夢を託した。

Eleonore von Portugal(画像/ 参考記事:沈黙の皇妃、失望の帝国へ嫁ぐ)

「この国を変えられるのは、あなたしかいない」──そう語らぬまま、彼女は教育と品位を与えた。

マクシミリアンはわずか3歳で市民の反乱により籠城を経験し、幼くして「統治とは苦難を伴うもの」と悟る。成人後、軍事遠征に25回出陣。

だが剣だけでは帝国は築けないと理解していた彼は、巧みに婚姻と交渉を武器に転じていく。

ブルゴーニュの婚姻とフランスとの衝突

1477年、フランスと神聖ローマ帝国の中間にあった富裕なブルゴーニュ公国。その継承者マリア・ブルゴーニュとの結婚は、運命の出会いだった。

マリアは「フランドルの白鳥」とも称され、最も華やかな文化と富に包まれた宮廷の公女。マクシミリアンは銀の甲冑をまとい、愛馬にまたがり、愛する人のもとへ現れた。

二人は夢を共有し、短くも深い愛を育む。読書、舞踏、狩猟──王子フィリップと王女マルガレーテの誕生とともに、幸福な日々が続いた。

マリー(マクシミリアンの皇妃)(画像:マクシミリアンが愛した妃 マリー)

愛する妻の死

だがその平穏は、突然の落馬事故によって終わりを告げる。マリアは致命傷を負い、懐妊中の身でこの世を去る。

「夫マクシミリアンに忠誠を、子どもたちを守ってください」──彼女の最後の言葉が、夫の胸に深く刻まれた。

マリアの死とともにブルゴーニュ公国は断絶したが、彼女が遺した愛と遺産は、やがて帝国の礎となる。マクシミリアンは後に政略結婚を重ねるが、マリア以上の愛を得ることはなかったという。



皇帝戴冠とイタリア戦争

1493年、父フリードリヒ3世の死によりオーストリアを継承。

だが、ローマでの戴冠をヴェネツィアに阻まれたため、1508年にトレントで自ら「選出された皇帝」を宣言。これにより、ローマ戴冠という中世の伝統は終わりを告げた。

一方でフランスとの対立は激化。イタリアに進出したシャルル8世に対抗すべく出兵したが、北イタリアはほぼフランスの手に落ちた。

婚姻政策

マクシミリアンが真に天下を制したのは、結婚の妙によってである。

1496年、長男フィリップをスペイン王女フアナと、翌年には娘マルガレーテをスペイン王太子フアンと結婚させる「たすき掛け婚姻」により、スペイン王家との結びつきを得た。

この後、スペイン側の相次ぐ早世という不運が、むしろハプスブルクに幸運をもたらす。

「偶然」の帝国地図

1506年にフィリップが没した後、その子カルロスが1516年にスペイン王として即位。ハプスブルク=スペイン両系の融合が実現する。

さらに1515年、東欧の大国「ヤゲウォ家との二重婚姻」によって、ハプスブルク家は将来のボヘミア・ハンガリー継承の布石を打った。

Family tree of Maximilian I (up to his grandchildren) (家系図と相関図)

そして1526年、モハーチの戦いでラヨシュ2世が戦死すると、フェルディナント1世が両王国を継承するに至る。こうして、結婚と「偶然」が交錯する中で、ハプスブルク家の大帝国が現出する。

統治構想と現実のあいだ

だが、すべてが思い通りに進んだわけではない。

マクシミリアンは「理想の帝国」を思い描いていた。諸侯が争わず、法が貫かれ、皇帝のもとに秩序が保たれる国──。

その理想のため、彼は私闘を禁じる「永久ラント平和令」、帝室裁判所の設置、帝国議会制度の整備などを試みる。

だが、現実には帝国諸侯の思惑はバラバラで、改革は遅々として進まなかった。

さらにイタリア戦線では、フランスとの争いに加え、ビザンツ帝国の復活や十字軍再興といった古びた夢にも執着してしまい、冷静な外交判断を欠く場面もあった。

理想と現実の板挟み。そのなかで彼はなお、「帝国とはなにか」を問い続けたのだった。



まとめ

マクシミリアンと家族 後列左からマクシミリアン1世、フィリップ美公、マリー女公、前列左からフェルディナント1世、カール5世、ラヨシュ2世 (真ん中に映るのが、後継者となるカール5世)

マクシミリアン1世は「剣よりも結婚」で領土を広げた皇帝として記憶されている。だが、その陰には果敢な軍事行動、壮大な帝国理念、そして諦めのない調整と交渉があった。

そして忘れてはならないのが、二人の女性──母・エレオノーレと妃・マリアの存在である。

文化を失った宮廷にあって、エレオノーレは静かに知性を持ち込み、言葉なき夫のもとで“言葉を教える”母として息子に夢を託した。

そして、短くも深い愛を遺したマリアは、彼の心に「国家とは守るべきもの」という覚悟を刻んだ。沈黙と愛──その両方が、マクシミリアンを帝国の建設者に育てた。

帝国の未来は、戦略だけでなく、母の祈りと妻の愛からも生まれる──それが、ハプスブルクという神話の核心にある。

さらに詳しく:
📖 【カール5世 (カルロス1世)】“日の沈まぬ帝国”を築いた皇帝の孤独と決断
📖 【愛と帝国を遺した王妃】マリア・ブルゴーニュの悲しい輿入れ
📖  沈黙の皇妃、失望の帝国へ嫁ぐ|マクシミリアン1世の母エレオノーレ

参考文献
  • Heinz Duchhardt, Das Alte Reich: Profil eines Ordnungsrahmens, München: C.H. Beck, 1997.
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  • 菊池良生『神聖ローマ帝国』講談社学術文庫
  • 三佐川裕『ドイツ その起源と前史』講談社現代新書
  • 馬場優『ハプスブルク帝国—最後の皇帝と民族の解放』東京大学出版会
  • A. J. P. Taylor, The Habsburg Monarchy 1809–1918, Penguin
  • Österreichisches Staatsarchiv
  • Monumenta Germaniae Historica
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