フリードリヒ2世は「フリードリヒ大王」として知られ、プロイセンをヨーロッパ列強へ押し上げた名君である。
啓蒙専制君主として軍事と文化を両立させたその治世は、プロイセン国家の黄金時代と呼ばれる。
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命を救った家を裏切る?【フリードリヒ大王とハプスブルクの宿怨】 ▶
基本情報
| 称号 | プロイセン王 |
| オーストリア大公 | |
| ボヘミア王 | |
| ハンガリー王 | |
| クロアチア王 | |
| スラヴォニア王 | |
| ガリツィア・ロドメリア王 | |
| 出生 | 1712年1月24日(ベルリン) |
| 死去 |
1786年8月17日(ポツダム・サンスーシ宮殿)
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| 享年 | 74 |
| 治世 | 1740年〜1786年(プロイセン王) |
| 伴侶 | エリザベート・クリスティーネ |
| 子女 | なし |
| 父親 |
フリードリヒ・ヴィルヘルム1世(兵隊王)
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| 母親 |
ゾフィー・ドロテア・フォン・ハノーファー
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| 前任者 | フリードリヒ・ヴィルヘルム1世 |
| 後継者 | フリードリヒ・ヴィルヘルム2世 |
人物の背景
フリードリヒ2世は「兵隊王」と呼ばれた父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の長男として生まれた。
少年時代は音楽や哲学を愛する繊細な性格で、軍事一辺倒の父と激しく対立したといわれる。若き日の反抗と友人カッテの悲劇的処刑は、彼の心に深い影を落とした。
しかし王位継承後は現実主義者として国政を担い、軍事・行政・文化のすべてに改革を加え、プロイセンを強国へと変貌させた。
治世で起きた主要な出来事
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オーストリア継承戦争(1740〜1748年)
即位直後、マリア・テレジアのハプスブルク家継承に挑戦し、シュレージエンを獲得。プロイセンの版図拡大の第一歩となった。 -
七年戦争(1756〜1763年)
オーストリア・フランス・ロシアなど列強を相手に戦い抜き、シュレージエンの領有を確定。軍事的天才として名声を確立した。
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啓蒙専制と国内改革
法典の整備、農業振興、宗教寛容令、行政効率化などを推進。サンスーシ宮殿に哲学者ヴォルテールを招き、啓蒙思想を重んじた文化的君主でもあった。
フリードリヒ2世の治世は、戦争と改革、理性と現実主義のバランスによってプロイセンを「ヨーロッパの新しい強国」へと押し上げた時代である。彼の死後、プロイセンは列強としての地位を固め、のちのドイツ統一への道を開いた。


