1545年、北イタリアの小さな町トリエント。
雪に覆われた石畳を、黒い法衣の行列が静かに進んでいく。教皇からの命で集められた枢機卿、司教、神学者たち――その顔には疲労と緊張が浮かんでいた。
外ではルター派の説教が広まり、帝国内は炎のように分裂している。「信仰とは何か?」「誰が神の声を伝えるのか?」誰もがその答えを見失っていた。
この日、鐘の音とともにトリエント公会議が始まった。カトリック教会が生まれ変わるまでの、18年に及ぶ苦悩の物語である。
この記事のポイント
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トリエント公会議は、宗教改革に揺れる時代にカトリックが“信仰を取り戻す”ために開かれた。
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皇帝と教皇、信仰と現実のはざまで、人々は「愛によって働く信仰」という答えにたどり着いた。
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この会議が、のちのイエズス会と反宗教改革の出発点となった
教皇と皇帝――ふたつの祈り
公会議の発案者は、教皇パウルス3世。彼は老齢の身を押して言った。

教会はもう一度、神の言葉に立ち返らねばならない。
だが、もう一人この会議を望んだ人物がいた。神聖ローマ皇帝 カール5世。ルターの宗教改革に揺れる帝国をまとめるため、信仰の統一を求めていた。
しかし、二人の祈りは決して同じではなかった。教皇は“魂の救い”を求め、皇帝は“帝国の平和”を願った。その温度差が、会議を難航させていく。
揺らぐ信仰、怒りと涙の議論
議場では、何度も声が上がった。
「人は“信仰”によって救われるのか、それとも“行い”によってか?」それは、ルターの思想がもたらした最大の問いだった。神学者たちは机を叩き、涙を流しながら言い争った。
「信仰だけで救われるなら、教会はいらないのか?」
「いや、神の愛は人の行いの中にこそ宿る!」
答えは一つではなかった。だが、彼らはある一点で一致する。

信仰は、愛によって働くものである。
それは、教会が初めて“理屈”ではなく“心”で語った瞬間だった。
腐敗した教会に、もう一度息を吹き込む
トリエントでは、信仰だけでなく「教会そのもの」が問われた。金で地位を買う聖職者、贅沢に溺れる司祭。民衆は教会を信じなくなっていた。
そこで公会議は決めた。
・司教は必ず自分の教区に常駐すること
・司祭は清貧 (私欲を捨てて潔い生き方)を守ること
・聖書の正しい解釈を学び直すこと
そして、民衆に聖書を広めすぎないよう注意もした。“知識”は時に信仰を壊す――そう信じられていたのだ。皮肉だが、この“制限”の中にこそ教会の再生があった。
人々は再び「教会を必要とする」ようになったのである。
終わりなき会議、始まりの改革
会議は嵐のように続いた。戦争で中断され、再開され、また止まり……。ようやく1563年、18年に及ぶ長い旅が終わる。その間に多くの者が亡くなり、世代が入れ替わった。
だが、彼らの遺した決定は明確だった。

教会は変わらぬ。だが、内側から立て直す。
その精神こそ、のちにイエズス会を生み、カトリックが再び世界へ布教を広げる原動力となった。
雪の中の祈り
閉会の日、トリエントには再び雪が降った。枢機卿たちは立ち上がり、静かに祈りを捧げる。長い議論の果てに得たのは、勝利でも権力でもない。
ただ、「信仰を守りたい」という共通の願いだった。
カール5世は老い、教皇も世を去った。だが、彼らの時代が残したこの会議は、数百年後の現代にも息づいている。
まとめ
トリエント公会議は、破壊ではなく再生の物語だった。信仰を失った時代に、教会は「もう一度、信じるとは何か」を問い直した。
真の改革とは、新しい何かを作ることではなく、忘れていたものを思い出すこと。雪のトリエントで、教会は“信仰の再生”を選んだ。
だが帝国では、別の形の答えが求められていた。
信仰の炎が、政治の現実に試されるとき――次の記事では、皇帝カール5世が下した歴史的決断を追う。▶︎ アウクスブルクの宗教和議とは?なぜ皇帝は“理想”を諦め、妥協を選んだのか
参考文献
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O’Malley, John W. Trent: What Happened at the Council. Harvard University Press, 2013.
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Jedin, Hubert. A History of the Council of Trent. Herder, 1957.
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MacCulloch, Diarmaid. The Reformation: A History. Penguin, 2005.
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Duffy, Eamon. Saints and Sinners: A History of the Popes. Yale University Press, 2014.

