ルイ17世の監禁と虐待―“沈黙の塔”で何が起きていたのか

牢獄の中のルイ17世 (出典:Wikimedia Commons) 家系図でたどる
牢獄の中のルイ17世 (出典:Wikimedia Commons)

1795年6月8日、パリ。

タンプル塔に幽閉されていた一人の少年が、10歳で息を引き取った。

ルイ=シャルル。フランス国王ルイ16世と、王妃マリー・アントワネットの次男である。

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 父が1793年1月に処刑されたあと、王党派はこの少年を「ルイ17世」と呼んだ。しかし、彼が実際に王座に就くことはなかった。

革命によって家族を失い、母とも引き離され、最後にはタンプル塔の一室で病に倒れた。その死には、長いあいだ「虐待された王子」という物語がつきまとってきた。

酒を飲まされた。暴力を受けた。不衛生な部屋に閉じ込められた。革命政府によって徹底的に虐待された―。

けれども、これらの逸話をすべて同じ「事実」として扱うことはできない。

同時代の記録をたどると、そこに見えてくるのは、もっと静かで、そして確実に過酷だった少年の監禁生活である。何が確認でき、何が後世の伝説なのか。

1795年、タンプル塔で起きていたことを、残された記録からたどってみたい。

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この記事のポイント

ルイ17世については、飲酒の強要、劣悪な衛生環境などを伝える記述が多数存在する。しかし、それらすべてを同時代の一次資料によって確認することはできない。

重要なのは、一人の幼い王子が家族から引き離され、自由と尊厳を奪われ、革命の政治に翻弄された末に、10歳で命を落としたという事実なのである。

王子として生まれ

革命の囚人となったルイ=シャルルが生まれたのは、1785年3月27日。

父はフランス国王ルイ16世、母は王妃マリー・アントワネットだった。母方からはハプスブルク家の血を引く。

その少年が、わずか4歳のとき、フランス革命が始まった。1789年、フランス革命が勃発。王家はヴェルサイユを離れ、パリへ移された。

1791年6月には、国王一家が国外への脱出を試みたヴァレンヌ逃亡事件が起こる。

王家への不信はさらに深まり、1792年8月10日のテュイルリー宮殿襲撃を経て、国王一家はタンプル塔へ移された。

ルイ=シャルルは、家族とともにここで監禁生活を送ることになる。1793年1月21日、父ルイ16世が処刑された。

王党派にとって、その瞬間からルイ=シャルルは新たな国王「ルイ17世」となった。

しかし、革命政府にとって彼は「旧王政の王子」であり、政治的に利用することのできる存在でもあった。そして同じ年の夏、少年は母から引き離される。

母との別離

1793年7月3日、ルイ=シャルルは母マリー・アントワネットのもとから移された。

その後、少年の世話と監視を任されたのが、靴職人アントワーヌ・シモンと、その妻マリー=ジャンヌだった。

当時の革命政府が少年に求めたのは、王子としての教育ではない。王族としての意識を失わせ、革命後の「市民」として扱うことだった。

同時代の記録や後世に伝えられた資料には、少年を王族としての身分から引き離そうとする働きかけが記されている。

そして、この時期にルイ=シャルルは、母マリー・アントワネットの裁判にも利用されることになる。

1793年10月、母の裁判で、少年が母親との「不適切な関係」を示す証言をしたとされ、その内容が法廷で利用された。

マリー・アントワネットの裁判の様子 (Public Domain)

しかし、この証言がどのような状況で少年から引き出されたのかは、慎重に考える必要がある。

7歳の子どもが、革命政府の監視下で母親から引き離され、その後の裁判で「利用」された。

少なくとも、その事実だけでも、少年が置かれていた状況の異常さはわかる。

「虐待」は、どこまで確認できるのか

ここからが、ルイ17世の物語で最も注意しなければならないところだ。

後世の伝記や王党派の記述には、シモン夫妻が少年に酒を飲ませ、暴力を振るい、卑猥な言葉を教えたとする、非常に凄惨な逸話が数多く登場する。

しかし、これらの逸話をすべて同時代の一次資料によって確認することはできない。

19世紀以降の歴史書には、こうした虐待の詳細を伝える記述が繰り返し登場する一方、その根拠について疑問を呈する記述も存在する。

つまり、「ルイ17世は虐待された」という一文だけでは、史実と伝説を区別できない。

確実にわかっているのは、少年が家族から引き離され、監視下に置かれ、王族としての身分を否定するような扱いを受け、母親の裁判にも利用されたということである。

そして、その後の監禁生活が決して穏やかなものではなかったことも、残された記録からわかってくる。

シモンが去った日

1794年1月19日。アントワーヌ・シモンは、タンプルでの役目を終えた。

ここから、ルイ=シャルルの生活についての記録は急激に少なくなる。後世には、この時期を「暗い独房に閉じ込められ、誰からも世話をされなかった」とする物語が生まれた。

しかし、ここでも注意が必要だ。

1794年1月から7月にかけて、少年の生活については記録が少なく、後世の証言や回想によって補われている部分が大きい。

そのため、「窓を釘で塞がれた」「糞尿の中に放置された」といった有名な逸話を、一次資料から確認された事実として書くことはできない。

一方で、少年の健康状態が悪化していったことは、後の記録から確認できる。そして1794年7月、ロベスピエールが失脚する。

その後、タンプル塔を訪れたポール・バラスらによって、少年の状態が確認された。ここから、彼の監禁生活には再び記録が残り始める。

監禁された少年の身体

19世紀に描かれた、ぼろをまとい孤独な若き王太子の姿。 (Public Domain)

1794年7月以降、ルイ=シャルルの世話をする人々が変わる。

ジャン=バティスト・ローランやジャン・ゴマンらが、少年の世話に関わった。それでも、少年の健康状態は回復しなかった。

1795年になると、病状はさらに悪化する。

そして5月、医師ピエール=ジョゼフ・デゾーが診察するようになる。その後、デゾーが亡くなると、外科医フィリップ=ジャン・ペルタンが少年の診療に関わった。

6月に入るころには、ルイ=シャルルは著しく衰弱していた。

ここには、非常に重要な一次資料が残っている。1795年6月8日、少年が亡くなった翌日に行われた検視・解剖の記録である。

検視記録に残された少年

1795年6月9日。

医師ジャン=バティスト・デュマンジャン、外科医フィリップ=ジャン・ペルタン、医学者ピエール・ラシュ、ニコラ・ジャンロワの4人がタンプル塔で遺体を検視した。

その記録には、少年の身体について、詳細な所見が残されている。

遺体は著しく痩せていた。腹部には異常が認められ、腸間膜や腹膜にも病変が確認された。

肺には胸膜との癒着がみられた。さらに、身体の各所に腫瘤が確認されている。

医師たちは、これらの病変について、「長期間存在した瘰癧性の病変(vice scrofuleux)」 によるものと判断し、それを少年の死因とした。

これは、1795年6月9日の検視記録に残されている。現代の医学史研究では、この所見を「結核性疾患」によるものと解釈する研究がある。

つまり、現在「ルイ17世は結核で死んだ」と説明されることが多いのは、この検視記録を現代医学の知識から読み直した結果なのである。

ここは重要だ。

1795年の医師が「結核」と診断したわけではない。当時の診断は「vice scrofuleux」。それを現代の研究が、結核性疾患と関連づけているのである。

「虐待によって殺された」のか

では、ルイ17世は虐待によって殺されたのだろうか。

現在残っている一次資料からは、そこまで断定することはできない。

少年が過酷な監禁環境に置かれていたこと。家族から引き離されたこと。母親の裁判に利用されたこと。長期間にわたって自由を奪われたこと。

そして、深刻な健康問題を抱えながら監禁生活を送っていたこと。これらは史料から確認できる。

一方で、「シモンの暴力によって死んだ」「虐待が直接の死因だった」という因果関係を証明する一次資料は存在しない。

だからこそ、ルイ17世の物語を「虐待死」とだけまとめるのは正確ではない。彼の死を直接説明する一次資料は、むしろ重い病変を示した検視記録なのである。

最後に残った謎―

少年が死んだあと、もう一つの謎が生まれた。

1795年6月8日にタンプル塔で亡くなった少年は、本当にルイ=シャルルだったのか。革命後、この疑問は長く残り、「ルイ17世生存説」が広がった。

19世紀には、自分こそルイ17世だと名乗る人物まで現れた。

しかし、現代になって、この謎に科学的な検証が加えられる。タンプル塔で亡くなった少年のものとされ、保存されてきた心臓について、ミトコンドリアDNAの分析が行われたのである。

2000年から2001年にかけて発表された研究では、2つの研究機関が独立して分析を行った。

その結果、心臓から得られたミトコンドリアDNAは、ルイ17世の母系親族のDNAと一致した。

クリスタルの壺に入ったルイ17世の心臓 (Photo: Zantastik / Wikimedia Commons, CC BY-SA 3.0)

また、ルイ17世を名乗ったカール・ヴィルヘルム・ナウンドルフの遺骨についても比較分析が行われ、ルイ17世本人とは一致しないことが示された。

科学的には、タンプル塔で1795年に亡くなった少年が、ルイ16世とマリー・アントワネットの息子ルイ=シャルルであったとする説が強く支持されている。

おわりに

おわりにルイ17世について、確実にわかっていることは、意外なほど限られている。

彼がどのような言葉を発したのか。監禁された部屋で何を考えていたのか。シモン夫妻との間で、実際にどのような出来事があったのか。

その多くは、もう知ることができない。

だからこそ、ルイ17世の物語には、後世の人々が付け加えた物語が数多く存在する。「虐待された王子」というイメージも、その一つである。

けれども、伝説を取り除いても、そこには十分に重い事実が残る。王子として生まれた少年は、革命によって家族を失った。父は処刑され、母とは引き離された。

王族としての身分を否定するような扱いを受け、母親の裁判にも利用された。

そして最後には、重い病に侵された身体を抱えたまま、タンプル塔で10歳の生涯を終えた。1795年6月9日、医師たちは少年の身体を解剖した。

そこに残されていたのは、王冠ではなかった。

長い監禁生活と病に蝕まれた、一人の少年の身体だった。そして約200年後、その心臓に残されたDNAが、少年の身元をめぐる長い謎に科学的な答えを与えることになる。

ルイ17世の物語は、「革命が王を倒した」というだけの物語ではない。

それは、巨大な政治的変動の中で、歴史の中心から突然切り離された一人の子どもが、どのように生き、そして死んだのかをたどる物語でもある。▶︎ 【王妃はなぜ憎まれたのか】マリー・アントワネットとフランス革命の悲劇

関連する物語:マリー・アントワネットの子供たち【母を奪われた子女たちの運命】

参考文献

(※) 注釈 ※1 「ルイ17世」という呼称について ルイ=シャルル本人が革命政府のもとで実際に統治したわけではない、

史料と後世の物語について ルイ17世の生涯は、王政復古期以降、革命をめぐる政治的・歴史的評価と結びつきながら語られてきた。

そのため、少年の監禁生活については、同時代の公文書・医療記録だけでなく、19世紀以降の回想・伝記・王党派の著述も大量に存在する。本記事では、それらを同じ史料的価値を持つものとして扱わず、可能な限り同時代資料を優先した。