ヘンリー8世の最初の王妃、キャサリン・オブ・アラゴン──
彼女は“狂女フアナ”の妹であり、カトリック両王が築いたスペイン王家の誇りを背負って異国イングランドへ嫁いだ王女だった。
のちに王国を揺らす離婚劇も、イングランドがローマと決裂する宗教改革の嵐も、その陰にはいつも、彼女の一族──すなわち スペイン王家とハプスブルク家につながる大陸側の視線があった。
キャサリンの人生は、夫ヘンリーの愛情と裏切りにゆれるだけの物語ではない。
ひとりの王妃の運命が、ヨーロッパの勢力図をじわりと動かし、やがてハプスブルク家の歴史へと深く結びついていく静かな引き金でもあったのである。
📖 キャサリンの基本情報はこちら ▶
この記事のポイント
- カトリック両王の末娘、キャサリンはイングランドへと嫁いだ
- しかし男児には恵まれず、ヘンリー8世は離婚を求め教皇と対立し国教会成立へ
- 唯一の娘メアリー1世はその後女王となり、ハプスブルク家のフェリペ2世と結婚することとなる
スペイン王家の少女
1485年、キャサリン・オブ・アラゴンはアラゴン王フェルナンド2世と、カスティーリャ女王イサベル1世──“カトリック両王”と呼ばれる夫妻の末娘として生まれた。
姉たちはそれぞれヨーロッパの名門へ嫁ぎ、家族の視線は最後の王女である彼女へ静かに注がれていた。その姉のひとりが、のちに精神の闇に沈むフアナ。

English Edition : Family tree of Henry VIII and his first queen, Catherine of Aragon
キャサリンにとって、姉の不安定な姿は王家の「血の重さ」を幼くして知る入口でもあった。
10代でイングランドへ。最初は王太子アーサーの妃として迎えられ、彼の死後、弟であるヘンリーと再婚する道が開かれる。これがのちに、彼女の人生の鍵となる。
若きヘンリーの“理想の王妃”
ヘンリー8世が即位したころ、彼はまだ快活で教養深く、騎士道を愛する青年王だった。
キャサリンはその隣に立ち、スペイン王家の知性と威厳をまとった“完璧な王妃”として人々に受け入れられた。
戦場に赴く夫の代理として地方を統治し、スコットランド軍をフロドンの戦いで破った報告を受けたのもこの賢い王妃である。
イングランド王妃としての力量は、だれもが認めるところだった。だが、ふたりの間に与えられた試練はひとつ──男子が生まれなかったこと。
王の心が揺れた瞬間
妊娠と流産をくり返し、生き残ったのは娘メアリーだけ。
これがやがて、王権の正統性を揺るがす火種となる。そんなとき、宮廷に現れたのがアン・ブーリンであった。

王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画) 出典:Wikimedia Commons
ヘンリーは彼女に魅了され、「キャサリンとの結婚は無効だ」と主張し始める。理由は、“彼女が兄アーサーの妻であった”という旧約聖書の戒律。しかしそれは後づけにすぎなかった。
本当は、彼女がもう年齢を重ね、男子を望むには難しくなっていたからである。
王妃の背後にいた“大陸最強の男”
キャサリンはヘンリーの要求を断固として拒んだ。
なぜなら彼女の背後には、ヨーロッパ最強の皇帝──スペイン王カルロス1世(神聖ローマ皇帝カール5世)がいたからだ。彼女の甥であり、フアナの息子でもある若き皇帝。
ヘンリーの離婚は「叔母を捨てる行為」であり、皇帝の一族への侮辱でもある。
ローマ教皇は、皇帝の軍がローマを制圧した後でカール5世の意向を無視することなどできず、離婚の許可はいつまで経っても下りなかった。(※)
こうしてイングランドは、教皇庁と大陸ハプスブルク帝国との板挟みになっていく。
静かな抵抗
王妃は決して声を荒げなかった。
涙による訴えも、激しい糾弾もない。ただ、「私はあなたの唯一の正妻です」と、静かに主張し続けた。王の要求に屈しないその姿は、誇りというより“祈り”に近かった。

国王の前で弾劾を受ける王妃(19世紀画) 出典:Wikimedia Commons
貞淑、信仰、血統──カトリック両王の娘として育った彼女にとって、「婚姻」とは政治よりも神の前の契約であり、捨てられることで消えるものではなかった。
だがヘンリーはついに決断する。ローマと決裂し、自らを首長とするイングランド国教会を設立したのだ。世界秩序が揺らぐ瞬間。
だが、そのきっかけとなったのは剣でも戦争でもなく、ひとりの王妃の“沈黙”であった。
母娘の誇り
1536年、冬のキムボルトン城。
キャサリンは胸の痛みに静かに耐えながら、小さな礼拝堂に向けて祈りの言葉を書き続けた。死因は、記録によれば胸部のがん とされる。
毒殺を疑う声も当時あったが、いずれの医師も自然死と報告している。
最期の手紙には、ヘンリーへの赦しと、娘メアリーへの愛が淡くにじんでいた。
王妃の称号を奪われ、夫にも遠ざけられた彼女が、それでも祈りの中に置いたのは憎しみではなかった。
その静かな死は、彼女が守り抜いた信仰と誇りの帰結であり、やがて娘メアリーがフェリペ2世と結び直すことになる。“スペインとイングランドをつなぐ糸”の、ひとつの区切りでもあった。
まとめ

キャサリン・オブ・アラゴン王妃の裁判 出典:Wikimedia Commons
キャサリン・オブ・アラゴン──彼女は“捨てられた王妃”として語られがちだが、その沈黙と誇りは、王国の行く末を動かした。
ヘンリーの離婚劇は、彼女が背負っていたスペイン王家とハプスブルク家を巻き込み、やがてヨーロッパの宗教地図すら揺らすことになる。
そして、彼女の娘メアリー1世がのちにフェリペ2世と結婚した瞬間、母が断たれた大陸との縁は静かに結び直されたのだった。▶メアリー1世はなぜフェリペ2世と結婚したのか?“女王”の選択とその代償
関連する物語:ヘンリー8世と最初の王妃キャサリン─離婚が変えた王国の行方とは?
参考文献
- 森護『ヘンリー八世とその時代』白水社
- 堀越孝一『エリザベス女王』講談社学術文庫
- 柳谷晃『テューダー朝のイギリス』山川出版社
- David Starkey, Six Wives: The Queens of Henry VIII, HarperCollins
- G. W. Bernard, The King’s Reformation: Henry VIII and the Remaking of the English Church, Yale University Press
- Catherine Fletcher, The Divorce of Henry VIII, Palgrave Macmillan
(※) 1527年の“ローマ劫掠”の後、教皇クレメンス7世はカール5世の強い影響下に置かれ、キャサリン離婚に同意する余地はほとんどなかった。

