【アルブレヒト1世とは?】王権を握りしめた皇子と“ロイス川の悲劇”

Albrecht I 皇帝の物語

力こそが秩序をつくる――そう信じた男がいた。

アルブレヒト1世。ハプスブルク家の屋台骨を築いた父ルドルフ1世の後継者として、彼は幼いころから“次の王”と目されていた。

だが、諸侯の恐れと深い猜疑心によって王位は彼の手から遠ざけられ、のちに奪い返したその王冠は、ついに血縁の刃によって散ることになる。

王権を握りしめた皇子が、なぜロイス川で命を落とすことになったのか――その答えは、彼が選んだ統治の「強さ」の中にあった。

この記事のポイント
  • 1291年、諸侯の意向で王位を拒まれたアルブレヒト1世、王位は別家へと移った
  • しかし1298年、ゲルハルムの戦いでアドルフを討ち王に即位
  • 内輪揉めが起こり、1308年、甥ヨハンに暗殺され王朝は再び混迷に沈む

📖 アルブレヒト1世の基本情報はこちら ▶



王になれなかった王子

アルブレヒト1世の肖像画 (出典:Wikimedia Commons Public Domain) 

1291年、ドイツ王ルドルフ1世が没した。

当然、嫡男アルブレヒトが王位を継ぐものと思われた。だが、選帝侯たちは違った。アルブレヒトは強すぎる――。

その冷徹さ、勤勉さ、実務能力の高さが、かえって諸侯たちには“危険な王権強化の兆し”と映ったのである。彼らが選んだのはナッサウ家のアドルフ。

ハプスブルク家はあっさり排除された。若きアルブレヒトは、父の遺産と名誉を守れぬまま、一地方の大公として退き、静かに機会を待つしかなかった。

ゲルハイムの戦い─

ゲルハイムの戦いを描いた油彩画|城砦前で激突する騎士と兵士たちの戦闘場面

ゲルハイムの戦い 出典:Wikimedia Commons

しかし、そのアドルフ王もまた暴走した。

家領拡大を急ぎ、諸侯の反発を買ったのである。1298年、ついに選帝侯たちはアドルフを廃位し、アルブレヒトに「帝国の救い」を求めた。

ゲルハイムの戦い。
両軍がぶつかり、わずか数時間で決着はついた。アドルフは戦死し、アルブレヒトは新ドイツ王に選ばれる。

拒まれた王冠を、自らの手で奪い返した瞬間だった。



強権をもって都市を掌握

アルブレヒトは、父ルドルフの統治を継承しつつも、そのやり方を“強めた”。

彼はオーストリアの中心ウィーンに目を向ける。父は都市の協力を得るため自治権を与えたが、アルブレヒトは真逆の手を打った。

1296年、ウィーンでの小さな騒乱を口実に、都市を帝国直轄から格下げし、ハプスブルク家の統制下へ。自治を奪い、王権によって都市を抑え込んだのである。

この転換こそが、のちの650年間にわたる「ウィーン=ハプスブルク」体制の決定的な基礎となった。

家族の中に生まれた“ひび”

だが、強権政治は外だけでなく、身内の中にも深い裂け目を生む。

弟ルドルフ2世との共同統治を解消した際、アルブレヒトは弟に領地を与えると約束していた。
だがその弟は早世。代償を受け取れないまま亡くなった。

残されたのは一人息子、ヨハン。

青年ヨハンは、父の権利を求めてアルブレヒトに再三訴えたが、王は領土の細分化を恐れ、要求を退け続けた。いとこたちは領地を得てゆくのに、自分だけが“空の手”――。

ヨハンの不満は憎悪へと変わっていく。



ロイス川の悲劇──暗殺

1308年5月1日。

アルブレヒトは、スイスのロイス川を渡ろうとしていた。そのとき、待ち伏せた一団が姿を現す。
中心にいたのは、甥ヨハン。

甥のヨハン、アルブレヒトを暗殺した (出典:Wikimedia Commons)

のちに「刺客ヨハン」と呼ばれる青年である。

騎兵に囲まれたアルブレヒトは、避ける間もなく刃を受けた。最初の一太刀は、ヨハン自身の手によるものだったと記録される。

王はその場で倒れ、絶命した。父の遺産を継ぎ、王権の中央集権を推し進めた強き王。その最期は、もっとも近いはずの血縁によってもたらされたのである。

死後に広がった波紋

王が暗殺されたことは、ハプスブルク家にとって致命的な打撃だった。

諸侯はただちにルクセンブルク家のハインリヒ7世を新王に選び、ハプスブルク家は再び王座から遠ざかった。暗殺者ヨハンは逃亡するが、アルブレヒトの妻エリザベトと娘アンナらは、彼を生涯追い続けたという。

ハプスブルク家は次男フリードリヒ美王を“対立王”として擁立し、王権奪還を試みるが、帝位奪取はならなかった。

ここから一族は、帝冠を取り戻すその日まで、長い試練の時代へ入っていく。



まとめ

アルブレヒト1世は、父ルドルフ1世の築いた基盤を引き継ぎ、さらに強固な王権をめざした皇帝であった。その能力は高く、統治は的確だった。

だが、彼の強さは、諸侯を、都市を、そして家族さえも遠ざけていった。

ロイス川に倒れたとき、ハプスブルク家は“家族の刃”という深い傷を負い、再び帝位から離れることになる。だが、この喪失ののちに訪れるのが、のちの皇帝 フリードリヒ美王の時代である。

彼の挑戦が、ハプスブルク家を再び帝冠へとつないでいくことになるのだ。▶︎ なぜフリードリヒ3世は何もせず勝てたのか?“遅すぎる皇帝”がヨーロッパを変えた真実

関連する物語:
📖 貧乏伯爵からドイツ王へ?【ルドルフ1世とハプスブルクの夜明け】
📖【完全解説】なぜハプスブルク家は“栄光と悲劇”を両立したのか?繁栄の理由と滅亡の原因



参考文献
  • Peter Moraw, The Holy Roman Empire 1495–1806, Oxford University Press, 2011.
  • Joachim Whaley, Germany and the Holy Roman Empire: Volume I, 1493–1648, Oxford University Press, 2012.
  • Franz-Josef Schmale, Rudolf I. und Albrecht I. von Habsburg, Wissenschaftliche Buchgesellschaft, 1987.
  • Helmut Maurer, Albrecht I. von Habsburg (1298–1308): Studien zur Reichspolitik, Jan Thorbecke Verlag, 1991.
タイトルとURLをコピーしました