【神聖ローマ帝国とは?】ハプスブルク家と“形だけの帝国”の実像

「神聖ローマ帝国」――この名前ほど、名は体を表さない国家も珍しい。

「神聖」なのに、腐敗と対立の坩堝 (るつぼ)。「ローマ」といいながら、実体はドイツ中部の寄せ集め。「帝国」の看板を掲げていながら、皇帝は自らの命令すら満足に通せなかった。

にもかかわらず、この不思議な国家は、およそ850年ものあいだヨーロッパの中心に存在し続けた。

しかも、その大半で皇帝の座にあったのは、他でもないハプスブルク家である。一体この「帝国」は何だったのか。そして、なぜハプスブルク家はこの舞台にこだわり続けたのか。

この記事のポイント
  • 962年、オットー1世が即位し「帝国=普遍国家」の理念が再生する
  • 帝国はキリスト教世界に普遍的秩序をもたらす使命を担う
  • しかし諸侯の台頭により分裂し、小国家群へと変貌、1806年には終焉を迎えた

神聖ローマ帝国を図解(神聖ローマ帝国とハプスブルク家の関係を図解)

カール大帝と“ローマ”の復活

神聖ローマ帝国の成り立ちを知るには、「西ローマ帝国」の崩壊と、その後のヨーロッパの分裂状態を理解する必要がある。

「ローマの後継者は誰か?」という問いは、中世のキリスト教世界において最も重要な政治課題だった。その答えを体現したのが、カール大帝とフランク王国だった――。

西ローマ帝国が滅びたのは476年。

だが、ローマの遺産は死ななかった。フランク王国を率いるカール大帝が、800年、ローマ教皇から「皇帝」の冠を授かり、キリスト教世界における「新しいローマ帝国」の理想が打ち出され、フランク王国はその体現者となった。  

だがこれは単なる王国の延長ではない。キリスト教世界における「神の秩序」を体現する、普遍的な帝国の誕生だった。

東フランク王国の地図

やがてこの王国は分裂する。のちのドイツとなる、この東フランク王国 (右図) こそが、神聖ローマ帝国の母体となった。そして962年、オットー1世がローマで戴冠し、「神聖ローマ帝国」が歴史の表舞台に現れる。

皇帝が命令できない“帝国”

だが、この帝国は、我々の常識からすると奇妙でならない。皇帝は存在する。

だが、強権をふるえない。なぜなら、帝国は一つのまとまりではなく、数百もの領邦国家の連合体だったからである。

ドイツ諸侯、教会領、騎士領、自由都市、果てはチェコのボヘミア王国まで。それぞれの支配者が自らの土地を治め、皇帝に従う義務はなかった。

しかも、皇帝は世襲ではなく「選挙」で選ばれる。選帝侯と呼ばれる大諸侯たちが合議で決めるのだ。「帝国」とは言っても、実際には「諸侯たちが皇帝を飾りとして戴く緩やかな連合体」に過ぎなかった。

神聖ローマ帝国 図解 (皇帝の地位 図解)

ハプスブルク家の“舞台”となる帝国

この脆い帝国の「帝位」を、ほぼ独占した一族がいた。ハプスブルク家である。

13世紀末にルドルフ1世が皇帝に即位して以降、帝位は長らくこの一族のものとなった。彼らが頼った最大の武器は、軍隊ではなく婚姻政策だった。

マクシミリアン1世が、ブルゴーニュの女公マリーと政略結婚を果たすと、豊かなネーデルラントが手に入った。さらにその息子フィリップはスペイン王女フアナと結婚。

こうして孫のカール5世は、「スペイン」「ドイツ」「イタリア」「新大陸」をも包含する“太陽の沈まぬ帝国”を築き上げる。

これはもはや、神聖ローマ帝国の枠には収まらない。帝国は、ハプスブルク家が王朝政治を展開する“舞台”と化していったのだ。

帝国を揺るがした宗教改革と三十年戦争

しかし16世紀、帝国の足元を揺るがす事件が起きる。1517年、ルターの登場である。

宗教改革の嵐が吹き荒れ、諸侯たちはカトリックとプロテスタントに分かれて激しく対立。1555年のアウクスブルクの和議では、「支配者の宗教がその地の宗教となる」ことが定められ、皇帝の「普遍的支配」という理想は瓦解した。

そして1618年、三十年戦争が勃発する。宗教・領土・継承――あらゆる利害が複雑に絡み合い、帝国の荒廃は極まった。

このときすでに、「神聖ローマ帝国」は名ばかりの存在になっていた。

名ばかりの帝国、ナポレオンの前に散る

18世紀末、フランス革命の嵐がヨーロッパを襲い、ナポレオンが登場すると、帝国は最後の時を迎える。

1806年、ナポレオンがドイツ諸邦をライン同盟にまとめ、自らの支配下に置くと、皇帝フランツ2世は「神聖ローマ皇帝」の称号を自ら放棄。およそ850年にわたり続いた帝国は、ここに完全に終焉した。

だがフランツは諦めなかった。彼は2年前の1804年、自らを「オーストリア皇帝フランツ1世」と称しており、帝国の理念を新たな形で残そうとしたのである。

神聖ローマ帝国の遺産

神聖ローマ帝国は、「国家」ではなかった。

それはむしろ、異なる文化と信仰が共存する「構造」だった。一枚岩ではないが、緩やかに繋がったその形こそ、現代のヨーロッパ統合に通じる“先駆け”とも言える。

そして、その不思議な舞台の中心には、いつもハプスブルク家がいた。彼らは「帝国」を支配したのではない。「帝国」という幻想を舞台装置として、自らの王朝を世界に押し広げたのだ。

霧の中から、ゆっくりと浮かび上がる帝冠――この帝国の姿を知らずして、ハプスブルクを語ることはできない。



まとめ

神聖ローマ帝国とは、962年から1806年までの約850年にわたり、ヨーロッパ中部に存在した実在の「帝国」である。だがそれは、単一の国家ではなかった。

選挙で選ばれる皇帝が君臨する一方で、帝国内は数百の領邦国家が群立し、それぞれの支配者が独自の法と宗教を守っていた。

この奇妙な構造の中で、ハプスブルク家は皇帝位をほぼ独占し、「戦争ではなく結婚」を武器に、帝国の外にまで勢力を広げていった。やがて宗教改革や三十年戦争の波が帝国を揺るがし、皇帝の権威は名ばかりのものとなる。

そして1806年、ナポレオンの登場によって「神聖ローマ帝国」は終焉を迎えた。

だがその理想――異なる民族や宗教が共存する「ゆるやかな秩序」は、現代ヨーロッパの統合にどこか通じる幻想を残している。

さらにくわしく:
📖 図解ハプスブルク|年表でみる王朝の盛衰
📖 5分で読めるハプスブルク家の歴史|図で学ぶヨーロッパ最大の王朝
📖 ハプスブルク家ってなに?初心者のためのQ&A10選

参考文献
  • 中野京子『ハプスブルク家の人びと』文藝春秋
  • カール・ツオイマー『ドイツ国民の神聖ローマ帝国—帝国称号についての研究』
  • Treaty of Pressburg (1805), Imperial Act of Abdication (1806)
  • Österreichisches Staatsarchiv(オーストリア国立公文書館)
  • World War I Document Archive(Brigham Young University 提供)
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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