【黒死病と王妃の死】レオポルト1世と“祈りにすがった”ウィーンの医療史

王妃の死のイメージ画像 医療の歴史と信仰
(© Habsburg-Hyakka.com / AI generated image)

ウィーンの夏、鐘が鳴る。黒衣の列が聖シュテファン大聖堂をよぎり、路地には石灰が撒かれる。1679年、ウィーンを襲ったペスト(黒死病)は、王侯貴族も逃れられない惨禍となった。

皇帝レオポルト1世は都を離れ、街に残されたのは死者と、祈りと、医療の限界だった。

本稿では、この大流行における宮廷の対応、そして皇帝自身が経験した「命を守れなかった苦悩」に焦点を当てる。

この記事のポイント
  • 1679年、ウィーンを襲ったペストは王侯貴族すら逃れられない惨禍だった
  • 王家の命すら救えなかった当時の医療の限界が、信仰と衛生への傾倒を深めた
  • 迷信と科学が交差する中で、レオポルト1世は“祈りを制度化した”統治を残した

ペストという「黒い影」

ペストとは、中世から近世にかけてヨーロッパを幾度も襲った、致死性の高い感染症である。

主にネズミやノミを媒介に広がるペスト菌が原因とされ、発熱、腫瘍、壊死を引き起こし、短期間で死に至ることも多かった。

14世紀の「黒死病」大流行では、ヨーロッパ人口の3分の1が死亡したとも言われる。以後も周期的に再流行を繰り返し、17世紀のウィーンも例外ではなかった。

──ウィーンを呑み込んだ死

1679年の大流行では、約10万人の人口に対し、1万人以上が命を落としたとされる。感染者は7万人を超え、市内では死体の収容が追いつかないほどの混乱に陥った。

路地では死体が野ざらしとなり、民衆は神の怒りを恐れた。

宮廷は市内の感染から逃れるように一時的に退避。だが、この逃避は「皇帝の無力」を象徴する出来事として人々の記憶に刻まれた。

皇帝レオポルト1世は、ペスト収束後の感謝の証として誓願を立て、後にバロック様式の「ペスト柱」がグラーベン通りに建立された。

この柱は単なる祈りの証ではない。疫病の記憶と、衛生の重要性を刻む都市モニュメントとして、いまもウィーンの中心にそびえている。



病室に並んだ祈祷書と処方箋

この時代、病気とは医学だけでなく、宗教的意味をもつ現象だった。「病は神罰か、自然現象か」──17世紀の人々はそのあいだで揺れ続けていた。

1679年のペスト流行時、ウィーン大学の医学教授パウル・デ・ソルバイトは、都市当局と協力し「感染隔離や衛生管理に関する方針」を提言したとされる(※ 注1)

だが、流行の猛威と現場の混乱はその実行を困難にし、市内では野ざらしの遺体や埋葬遅延が問題となった。

瀉血のイメージ画像

瀉血 (© Habsburg-Hyakka.com / AI generated image)

衛生観念が乏しく、かつ迷信も根強いなかで、医師と司祭が同じ部屋にいることは珍しくなかった。片や血を抜き、片や魂を救う──それが、当時の宮廷医療のリアルである。

最愛の妃すら救えなかった皇帝

レオポルト1世にとって「命が救えない」という無力の記憶は、ペストだけではない。最初の妃マルガリータ・テレサは、スペイン・ハプスブルクの王女であり、ベラスケスの名画『ラス・メニーナス』に描かれた少女である。

叔父であり夫となったレオポルトのもとに嫁ぎ、7年の結婚生活で4人の子を授かったが、成人したのは娘マリア・アントニアのみ。

そして1673年、マルガリータは21歳で亡くなる。

ラス・メニーナス、フェリペ4世の娘マルガリータ・テレサ

ラス・メニーナス、フェリペ4世の娘マルガリータ・テレサ (出典:Wikimedia Commons Public Domain) 

死因は出産後の感染症──産褥熱とされる。(※ 注2)

医師団は治療を尽くし、聖遺物が産室に置かれ、司祭の祈祷も重ねられたが、彼女は帰らなかった。この喪失が、レオポルトの信仰と儀礼への傾倒をさらに深めたと同時代人は記している。

 

戦争と疫病のはざまで──

1679年のペストから間もない1683年、ウィーンは再び危機に晒される。オスマン帝国による第二次ウィーン包囲戦である。

レオポルトは王家とともに都を離れ、司令官たちに都市防衛を委ねた。疫病と同様、この戦争でも彼は「退避」という選択をしたのだ。

その間、都市では祈祷行列と軍事行動が並行して行われた。ポーランド王ヤン3世ソビェスキの到着で包囲は解かれ、ウィーンは持ちこたえた。

病と戦火のはざまで、人々を支えたのは「信仰」と「規律」であった。

処方箋に書かれた“未来”──宮廷医療の限界と進化

レオポルトの時代、医学は「四体液説」とパラケルスス流の化学療法が混在していた。瀉血、嘔吐剤、鉱物製剤、そして数十種の薬草を混ぜた複合薬。(※注3)

迷信まがいの処方もあれば、観察に基づく処置もあった。

医療は依然として「自然と神の間」で揺れるものであり、祈りと処方箋は表裏一体だった。

三度の結婚のうち、二妃を若くして失ったレオポルト。ようやく三番目の皇后エレオノーレ・マグダレーナとの間に、男子(ヨーゼフ1世・カール6世)を得て王朝は継がれることになる。

統治と祈りの交差点

レオポルト1世の統治は、ひとことで言えば「祈りを制度にした」政治であった。

ペスト柱、祈祷行列、儀礼による都市統制──彼は信仰を都市政策へと昇華させ、旧来の精神秩序を維持した。その反面、医学的ブレイクスルーは彼の時代には起きなかった。

だが、規程と隔離、そして衛生という概念は、この時代から根を張り始める。王妃を救えず、都を離れた皇帝は、それでも都市に「祈りの柱」を残した。

それは、失われた命への祈りであると同時に、「これからの命」のための処方でもあった。



まとめ

──歴史が教えるのは、失われた命が、次の時代を形づくるということだ。

かつてペストが王宮を呑み、王妃を奪ったとき、レオポルト1世は人知れず祈った。その祈りは、やがて制度となり、記念碑となり、都市の記憶となった。

命を救えなかった記憶が、未来の命を守る“しくみ”を生む――歴史が静かに教えるのは、そうした「失われた声」の重みなのかもしれない。▶︎【愛された王妃と短すぎた生涯|ラス・メニーナスの少女マルガリータ・テレサの悲劇】

参考文献
  • (※注1)(Sorbait, Consilium medicum, 1679)
  • (※注2) Brigitte Hamann, Die Habsburger: Ein biographisches Lexikon(1988)/ C. Varela, Margarita Teresa de Austria, reina de Hungría y Bohemia(2006)
  • (※注3) Lindemann, Mary. Medicine and Society in Early Modern Europe. Cambridge University Press, 2010.(特に第3章)
  • ※17世紀の医療では、ガレノス由来の四体液説と、パラケルスス派の化学療法(鉱物・金属製剤など)が併用されていた。→ Allen Debus『The Chemical Philosophy』(2002)

 

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