死の臭いが街を包んでいた。
1679年、ウィーンはペストに沈黙し、鐘の音すら恐怖を煽る。人々が祈りと絶望の間をさまよう中、帝国にはさらに大きな影が迫っていた――オスマンの大軍である。
(レオポルト1世の肖像画)
城に皇帝の姿はなかった。だがそれは逃亡ではない。レオポルト1世は祈りと外交の間に身を置き、帝国を支える「見えない戦場」で剣を振るっていた。
この記事のポイント
- 1679年、ウィーンをペストが襲い、人口の一割が命を落とした
- オスマン帝国がウィーンを包囲し、帝国存亡の危機に陥るも救援を得て回避
- スペイン継承戦争を経て領土を拡大し、ハプスブルクの権威を回復した
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皇帝に選ばれた「代役」
レオポルト1世は本来、皇帝の器ではなかった。兄の急逝と父フェルディナント3世の死が重なり、望まぬまま空席を埋める存在となったのだ。
フランス宰相マザランは、バイエルン候を立てて阻もうとしたが失敗。こうしてレオポルトは「消去法の皇帝」として即位した。
しかし即位の日から、彼はフランス王ルイ14世という巨大な影と向き合う宿命を背負った。
ペストの黒死と「第二次ウィーン包囲」
(画像イメージ:第二次ウィーン包囲)
1679年、ウィーンを襲った黒死病で数万が倒れた。人心が荒れる中、1683年にはオスマン帝国の大軍12万がウィーンを取り囲む。
守備兵はわずか1万6千、市民の富裕層は逃げ去り、残った者たちは絶望の淵で壁を守った。皇帝は城にいなかった。彼はリンツに退き、ヨーロッパ全土に援軍を求めて走ったのだ。
やがてポーランド王ヤン3世ソビエスキ、ロートリンゲン公カール、神聖ローマの諸侯が結集する。9月12日、丘に陣取った同盟軍は「ワイン畑の戦い」でトルコ軍を打ち破り、ウィーンは奇跡的に救われた。
血の継承とスペイン継承戦争
皇帝の静かな日々は長く続かなかった。義弟カルロス2世が後継者なく崩御し、スペイン王位をめぐる争いが勃発。
ルイ14世は孫フィリップを送り込み「ピレネー山脈は存在しない」と宣言。レオポルトはオーストリア・ハプスブルクの血筋を掲げ、イングランドやオランダと同盟を結び「対フランス大同盟戦争」へ突入した。
戦争の行方を見ることなく、皇帝は病に倒れる。
だがその最後の年、彼は一手の外交を放っていた――ブランデンブルク選帝侯を「プロイセン王」と承認する密約。それは譲歩に見えて、皇帝だけが持つ「権威」を刻印する巧妙な策だった。
バロックの皮、勤勉の中身
(レオポルト1世の肖像画)
レオポルト1世には「バロック皇帝」の異名がある。シェーンブルン宮殿の建築、2年にわたる結婚式の祝宴、贅を尽くした音楽と舞踏――
だが、その見た目の煌びやかさとは裏腹に、彼の内面は極めて実直で、質素だった。そして何より、彼の顔立ちは「ハプスブルク顎」と呼ばれる家系特有の特徴を強く示していた。
前突した顎はしばしば揶揄の対象となったが、同時に「血統の証」として帝国の象徴とも見なされた。その顎は、スペイン系との近親婚を重ねた家の宿命をも示しており、やがて虚弱なカルロス2世を生み、スペイン継承戦争の火種へとつながっていく。
まとめ
レオポルト1世。顔はハプスブルクの宿痕を映し、声は決して高ぶらなかった。だがその忍耐と静かな気迫は、帝国を危機から救い続けた。
ペストの黒死から、三日月の包囲、バロックの虚飾、王冠の継承争い――そのすべてを生き抜いた彼は、帝国の「礎石」となった。だが、その石にはすでに深いひびが入っていた。
姪マルガリータ・テレサを妃に迎えた婚姻は、血統の純潔を守るはずだった。だがその濃すぎる血の連鎖は、スペインの王位を揺るがす。静寂の皇帝が残したのは、秩序と同時に、次世代を呑み込む宿命の火種だったのである。
(家系図と相関図)
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参考文献
- 菊池良生『ハプスブルク帝国』講談社現代新書
- P. H. Wilson, The Holy Roman Empire: A Thousand Years of Europe’s History, Penguin
- Henry Kamen, Empire: How Spain Became a World Power
- Geoffrey Parker, Europe in Crisis: 1598–1648, Wiley-Blackwell
- 市川裕美子「レオポルト1世と第二次ウィーン包囲」『オーストリア史研究』第18号(2018年)
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