1477年、母マリアの急死により、マルガレーテ (マルグリット・ドートリッシュ)の運命は静かに狂い始めた。父マクシミリアンは娘を愛していた。
だがブルゴーニュの貴族たちは、彼女を人質とし、政略の道具と見なした。まだ3歳の彼女はシャルル8世の婚約者として、フランス宮廷に送られることになる。
(マクシミリアン帝の娘、マルガレーテ)
──アンボワーズで育てられる少女に、まだ「拒む」という選択肢はなかった。
この記事のポイント
- マクシミリアン1世の愛娘、マルガレーテ
- 度重なる政略結婚の中でも、自分を見失わず使命を貫いた
- 晩年は甥 (カール5世) の養育にも力をいれ、帝国の静かなる支えとなった
マクシミリアン帝の愛娘
マルガレーテは、神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世とブルゴーニュ公女マリアの娘として生まれた。裕福で気品に満ちた少女時代は、母の急死とともに終わりを告げる。
3歳でフランス王子シャルルとの婚約、2歳で人質としての政治的拘束。以後、彼女の人生には「自由」という言葉は存在しなかった。
それでも、マルガレーテは一度たりとも自らを崩さなかった。感情に流されず、理性を盾とし、自制と洞察をもって歩んだ生涯は、激情に呑まれた兄嫁フアナとは対照的である
フランスでの十年──育てられ、捨てられた妃
マルガレーテは王家の姉、アンヌ・ド・ボージューの手でフランス風に教育され、宮廷での礼儀や文学を身につけていった。
フランスでは、健やかに育ったこのブルゴーニュの花嫁に大きな期待が寄せられた。だがそれは、決して彼女自身の意志によるものではなかった。
シャルル王子との婚約は表向きには順調に思えたが、ブルターニュ女公アンヌとの政略結婚が突如決まり、マルガレーテは「不要な花嫁」として追い返される。
屈辱だった。だが、胸を張り、笑顔さえ絶やさずに故郷へ帰還した。
父帝マクシミリアンは喜んで愛娘を迎えたという。
スペインの王子と短すぎる幸福
その後、マルガレーテは「スペイン王子ファン」と再婚する。若きふたりの新婚生活は人々の祝福を受けて始まったが、ファン王子は生来病弱であった。
やがて夫は病に倒れ、結婚からわずか半年足らずで急逝する。
マルガレーテはそのとき、夫の子を身籠っていた。国王夫妻フェルナンドとイサベルは、彼女の胎内の子に未来を託し、大いなる期待を寄せた。
だがその願いもむなしく、生まれた子は死産であった。深い喪失と失望を胸に秘め、彼女は再び祖国へと戻った。
サヴォイ公との再婚、そして独身の誓い
サヴォイ公フィリベールとの再婚──それは父マクシミリアンの要請だった。
彼女は応じ、良き伴侶を得たが、またしても夫は病没する。三度目の喪服に身を包んだとき、マルガレーテは決めた。「私は誰の妻にもならない」と。
それは拒絶ではなく、選択だった。そしてその選択こそが、彼女を帝国の「母」とする道を切り開く。
ネーデルラントの女総督と甥の養育
やがて父マクシミリアンは、娘にブルゴーニュ=ネーデルラントの総督職を託す。
結婚の道を閉ざし、政治に生きることを選んだマルガレーテは、この地で甥カール(後の皇帝カール5世)の養育を担い、のちにその即位と帝国政策を支える最大の後ろ盾となる。
(マクシミリアンと家族 真ん中に描かれているのが甥カール)
彼女が果たした最大の業績の一つは、1529年、苦境に立つ皇帝カールとフランス王フランソワ1世とのあいだに結ばせた「貴婦人の和約」である。
交渉の相手は、かつての宿敵フランスで育った旧知、ルイーズ・ド・サヴォイ──少女時代の因縁が、静かなる外交の力となった。
マルガレーテの晩年
カール5世がヨーロッパを統べる皇帝へと登り詰める過程の陰には、常に叔母マルガレーテの影があった。派手さはなくとも、折れぬ芯と冷静な判断、そして過酷な運命に押し潰されなかった気高さ──
マルガレーテは晩年を、メッヘルンの宮廷で芸術と知性の香りに満ちた生活に費やした。
画家、彫刻家、詩人たちが集うこの都市は、彼女の庇護のもとでルネサンス文化の華を咲かせる。1530年12月、メッヘルンで永眠。
彼女は、沈黙のうちに帝国を動かしていたのである。
まとめ
政略結婚、二度の寡婦生活──それは「悲運」ではない。
「静かな選択」である。マルガレーテは、感情に流されず、力を誇示せず、ただ誇りと理性をもって帝国の舵をとった。
彼女が育てたカール5世が「日の沈まぬ帝国」を築いたのは、偶然ではない。彼女こそ、その夜明けを見つめた者だった。静けさの中にこそ、最も深い勇気が宿ることを、彼女は教えてくれた。
さらに詳しく:
📖 カール5世 (カルロス1世)|太陽の沈まぬ帝国、その始祖の孤独
📖 ハプスブルク家の家系図でたどる、650年の王朝史
📖 マクシミリアン1世と婚姻政策|結婚で築かれた帝国
この記事のポイント
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Leti, Gregorio. The Life of Charles V. London, 1682.
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Blockmans, Wim. Emperor Charles V, 1500–1558. Bloomsbury, 2002.
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Harsgor, Michel. Marguerite d’Autriche. Fayard, 1993.
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江村洋『ハプスブルク家の女たち』中公新書、1989年
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永井宏『カール五世の時代』南窓社、1997年
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