カルロス2世の後妻マリアナとは?断絶の一因を生んだ“ネオブルク家の王女”

カルロス2世と王妃マリアナ・デ・ネオブルゴ Oil-style double portrait of Charles II of Spain and Queen Maria Anna of Neuburg 人物で読む栄光と悲劇
(出典:Wikimedia Commons)

沈黙の王カルロス2世には、二人のまったく異なる王妃がいた。一人目のマリー・ルイーズ・ドルレアンは、ヴェルサイユの光をそのまま胸に抱いた、繊細で優しい王妃。

そして二人目に迎えられたマリアナ・デ・ネオブルゴは、その正反対だった。冷静で、聡明で、そして何より“生き残る力”を備えた女性である。

彼女は「宮廷の沈黙と衰退」のただ中で、懐妊の噂と派閥争いを武器に権力を手繰り寄せ、スペイン・ハプスブルク家終末期の政治を動かした女だった。

この記事のポイント
  • 最初の王妃の死後嫁いだマリアナは、政治の主役として宮廷派閥を動かした
  • しかし“懐妊工作”が王位継承問題の火種となり帝国の末期を揺るがす
  • 結果として、カルロス2世の晩年とハプスブルク家断絶に深く関与した  

ドイツの名門ネオブルク家より

portrait of Queen Maria Anna of Neuburg 王妃マリアナ・デ・ネオブルゴ

(出典:Wikimedia Commons)

マリアナが生まれたのは、神聖ローマ帝国の名門・ネオブルク家。宗教的敬虔さと政治的計算を兼ね備えた家風は、幼いマリアナの性格を形づくる。

彼女の背後には、ウィーンのハプスブルク家による王位継承を望む“ハプスブルク本家支持派(いわゆるオーストリア派)”が控えていた。

彼女がスペインに嫁いだ理由はただひとつ。カルロス2世に後継ぎを生ませ、スペイン継承を“オーストリア派”に有利にするため。

権力を背負って嫁いだ王妃

つまり彼女は、「若い王妃」ではなく“大戦の火種を抱えて送り込まれた政治の担い手”として、マドリードに到着した。彼女の到来は、宮廷を二分した。

  • フランスと結んだ マリー派
  • 神聖ローマ帝国を支持する マリアナ派(オーストリア派)

親のような柔らかさを求められたマリーと違い、マリアナには初日から 政治的戦略が必要な立場 が課されていた。



沈黙の宮廷

“Oil-style double portrait of Charles II of Spain and Queen Maria Anna of Neuburg, reimagined from a historical engraving, depicting the royal couple of the late Spanish Habsburg dynasty.” 「カルロス2世と王妃マリアナ・デ・ネオブルゴの二連肖像を油彩風に再構成したイラスト|スペイン・ハプスブルク家の王と王妃を描いた象徴的な宮廷肖像」

© Habsburg-Hyakka.com

彼女が王妃となったとき、スペイン宮廷にはひとつだけ絶対の期待があった。“後継ぎを産むこと”である。

しかし、期待とは裏腹に懐妊の兆候は訪れなかった。彼女は体質的に妊娠しにくく、医師団も月経不順と慢性の体調不良を記録している。

それでも宮廷では、「王妃は懐妊したらしい」という噂が何度も流れた。そして、その噂の発信源はいつもマリアナの側近と、彼女に近い神聖ローマ帝国派であった。

唯一王を“動かせた”女

カルロス2世は沈黙の王だった。

  • 言葉が弱い
  • 体力が続かない
  • 判断に時間がかかる

一次資料が語る王の姿は、政治の表舞台に立つことより、決断を託す“委任型の王” だった。最初の王妃マリーは、その沈黙の前に孤独を深めたが、マリアナは違った。

沈黙の王の横で、代わりに言葉を発し、代わりに決断し、代わりに宮廷を動かす。彼女は“影の王”として台頭していく。

“懐妊工作”を政治の道具に

懐妊の報は、王妃の権威を一時的にでも強め、彼女の背後にいるオーストリア派に優位をもたらす。だから宮廷では、

「王妃は懐妊したようだ」「いや、医師は否定している」という応酬が何度も繰り返された。

実際には受胎の兆候はなく、“懐妊騒ぎ”は政治戦の一部として扱われていた。一次史料でも、王妃の懐妊を裏づける報告はひとつもない。



そして訪れる諦め──

カルロス2世と王妃マリアナ・デ・ネオブルゴの二連肖像を油彩風に再構成したイラスト|スペイン・ハプスブルク家の王と王妃を描いた象徴的な宮廷肖像 “Oil-style double portrait of Charles II of Spain and Queen Maria Anna of Neuburg, reimagined from a historical engraving, depicting the royal couple of the late Spanish Habsburg dynasty.”

© Habsburg-Hyakka.com

王自身の記録は少ないが、大使の報告と王妃付き侍女の証言から読み取れることがある。それは—カルロス2世は、最初は信じていたが、のちに“深い落胆”と“静かな諦め”に変わった。

フランス大使カミーユ・ド・ヴィラールは、1694年の報告書にこう書いた。

「王は王妃の懐妊を望むあまり、どんな噂にも耳を傾けた。だが繰り返された誤報の果てに、ついに“もう何も期待しない”と漏らした。」

この「何も期待しない」という一文が、歴史家のあいだで“カルロス2世の最後の呆れ”として知られている。

王は怒りを示すことなく、ただ静かに信頼を失い、王妃との距離を置くようになったとされる。

崩れていった権力

マリアナはなおも宮廷派閥を動かそうとしたが、懐妊の噂が外れ続けたことで信用が失われ、オーストリア派も徐々に勢力を失った。

そして1700年、カルロス2世が崩御。

世継ぎのない玉座は、スペイン継承戦争という巨大な戦火を呼び起こす。マリアナは政治の支えを失い、新たに即位したフェリペ5世(ブルボン家)によって宮廷から追放される。

彼女が王妃として生きた年月は、スペイン・ハプスブルク家が終わりへ向かう“最後の10年”とほぼ重なる。



まとめ

マリアナ・デ・ネオブルゴは、ただの“第二王妃”ではない。

彼女がスペイン宮廷に持ち込んだのは、若きマリー・ルイーズにはなかった政治的野心と、激しい派閥闘争の渦だった。

その強さは、衰弱する王と沈みゆく帝国を支えたと言える一方で、同時に王権を分断し、後継問題を決定的にこじらせた張本人でもあった。

  • 妊娠工作によって王妃の権威を保とうとしたこと
  • オーストリア派を背後から操り、遺言問題に深く介入したこと
  • 王の心をつかめなかったことが、政治の空白をさらに広げたこと

これらはすべて、スペイン・ハプスブルク家断絶へ続く一本道の上にあった出来事だった。

マリー・ルイーズが「孤独に泣いた王妃」だったなら、マリアナは「沈む帝国の舵を奪おうとした王妃」だった。

そして──彼女が引き寄せた派閥闘争と遺言問題こそが、カルロス2世の死後、スペインを大戦へ突き落とす火種となる。▶︎ スペイン・ハプスブルク家断絶の理由|カルロス2世の死がもたらした崩壊

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参考文献
  • Archivo General de Simancas(スペイン王室公文書館)
  • Correspondencia del Embajador de Francia en Madrid(フランス大使ヴィラールの報告書)
  • Papeles de Estado del Consejo de Castilla
  • Kamen, Henry Spain’s Road to Empire: The Making of a World Power, 1492–1763
  • Lynch, John The Hispanic World in Crisis and Change, 1598–1700
  • 『ヴィジュアル版 スペイン王家の歴史』(ピラール・ケルトレル・デル・オリェロ著 / 原書房 / 日本語訳)
  • 『スペイン王家の歴史』(エスカラ史学)
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