その勝利は、栄光ではなく冷徹だった。
マティアスは剣ではなく交渉で帝国を奪い返し、兄ルドルフ2世を玉座から退けた。しかしその手に入れた帝国は、すでに深い亀裂に覆われていた。
信仰と政治、兄弟の確執、迫り来る戦争の足音――彼の治世は、嵐の前の静けさだったのである。
この記事のポイント
- 1606年、兄ルドルフ2世に反旗を翻し講和を主導する
- 1612年に神聖ローマ皇帝となるが、貴族の分裂と宗教対立に翻弄される
- 結果として、窓外投擲事件を招き三十年戦争を引き起こすこととなった
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兄ルドルフとの対立
「兄上、帝国は崩れていきます!」
マティアスはそう進言したと伝わるが、兄ルドルフは答えず、ただ天球儀を回していたという。
ルドルフが芸術と錬金術の夢想に沈んでいく間に、マティアスは現実を選んだ。ハンガリーやオーストリアの貴族と同盟し、現場で兵を動かし、外交の手綱を握った。
1606年、マティアスは兄の許可なくオスマン帝国とジトヴァ・トロク平和条約を結ぶ。これは単なる和平ではなく、兄の権威に対する公然たる挑戦であった。
宮廷クーデター
ハンガリーとオーストリアの貴族は彼を支持し、帝国内でマティアスの影響力は急速に拡大する。
1611年、ボヘミアの貴族たちは兄ルドルフの統治に耐えかね、マティアスをプラハに招き入れることを決定。マティアスは軍を率いてプラハへ進軍し、兄を実質的に幽閉する。
帝国の未来は、兄弟の対立という形で決せられようとしていた。
悲劇の皇帝交代劇
1612年、ルドルフは病床で命を落とし、マティアスが神聖ローマ皇帝の座に就く。だがそれは「勝者の即位」というより、疲弊した帝国の後始末を背負う決断だった。
帝国の財政は破綻寸前、オスマン帝国との戦争で荒廃したハンガリーは混乱し、宗教的分裂は深刻化。マティアスは皇帝としての権威を再建しようとしたが、貴族や諸侯はそれぞれの領地で力を蓄え、中央集権化は進まなかった。
彼の即位は、ハプスブルク家内部における「現実派の勝利」であったが、帝国の安定をもたらすにはあまりにも遅すぎた。
宗教対立と絶えぬ火種
マティアスは穏健派であろうとした。1609年に兄ルドルフが公布した「ルドルフ勅許」を一応は承認し、ボヘミア諸身分の信仰の自由を認めた。
しかし、これはカトリック勢力にとっては譲歩であり、一方でプロテスタントにとっては不十分な妥協にすぎなかった。
皇帝の一挙手一投足が諸侯の不信を呼び、帝国は次第に不安定さを増していく。マティアスは調停を試みたが、根本的な対立を解消する力は持たなかった。
三十年戦争への道

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1618年、ついに火はついた。プラハ城の窓から皇帝派の役人が放り投げられた「窓外投擲事件」。この象徴的な暴挙が、三十年戦争の口火を切る。
この時、マティアスはすでに老い、病に伏していた。実権は後継者フェルディナント2世に移りつつあり、マティアスは帝国の行く末を見届ける力を失っていた。
1619年、彼は静かに世を去る。その死は、帝国の調停者が消えたことを意味し、ヨーロッパ全土は長き戦乱に飲み込まれていった。
まとめ
マティアスは、兄ルドルフ2世を退け、帝国を現実の政治へと引き戻した男だった。だが彼が手にした帝国は、すでに深く裂け、誰にも簡単に修復できない状態にあった。
彼の治世は「嵐の前の静けさ」であり、その死と同時に帝国は再び大きく揺れ動き始める。そして、次に玉座に座るのは甥フェルディナント2世――
信仰の守護者を名乗り、三十年戦争という未曾有の戦乱へ帝国を導く皇帝である。
嵐の幕はすでに上がっていた。帝国はこれから、血と信仰で試される時代へと突入していく。▶︎ 三十年戦争とは?宗教戦争の仮面をかぶった国家間戦争
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参考文献
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川成洋編『ハプスブルク事典』丸善出版、2023年
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ドイツ近世史研究会編『神聖ローマ帝国と三十年戦争』ミネルヴァ書房、2018年
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