マクシミリアン2世とは?なぜ“寛容”は帝国を救えなかったのか

臨終の床で、マクシミリアン2世は異例の決断を下した。

カトリック皇帝にとって不可欠とされる「終油の秘跡」を拒んだのである。それは単なる個人の信仰の問題ではなかった。

/Portrait of Maximilian II (1527-1576), son of Ferdinand I (マクシミリアン2世)

宗派の対立に引き裂かれた16世紀ヨーロッパにおいて、皇帝自らが「どちらにも寄らぬ」姿勢を示した瞬間だった。彼の人生は、宗教戦争前夜に揺れる帝国そのものを映す鏡であった。

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父フェルディナント1世の後継者として

マクシミリアン2世は、神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の長男としてウィーンに生まれた。1564年に父が没すると、神聖ローマ皇帝位とともにボヘミア王、ハンガリー王を兼ね、広大な帝国の支配を引き継ぐ。

だが同時に、弟たちへ領地が分割され、オーストリア・ハプスブルク家は三系統に分裂。帝国は最初から「一枚岩」ではなく、兄弟同士の力関係の中で微妙な均衡を保たねばならなかった。

さらに彼が継いだのは、安定した帝国ではなく、すでに深刻な宗教対立とオスマン帝国の脅威に揺れる時代だった。

“寛容”の思想と皇帝への不信

彼の特徴を一言で表すなら「寛容」である。

幼少期から人文主義者エラスムスの思想に傾倒し、信仰よりも理性を重んじる教育を受けた。カトリックに生まれながらも、ルター派の教えに理解を示し、周囲には「プロテスタント寄り」と見られることも多かった。

そのため、スペイン王フェリペ2世を代わりに皇帝に立てる案まで浮上し、彼の正統性は常に疑われていた。だがマクシミリアンは、妥協と共存による政治を選び、強硬路線を進んだスペイン系ハプスブルクとは一線を画した。

宗教対立の狭間で

アウクスブルクの和議のイメージ画像

1555年、父フェルディナント1世の尽力によって「アウクスブルクの和議」が成立した。

これは「領主の宗教が領民の宗教を決める」という妥協策であり、帝国の分裂を固定化する半面、一時的な平和をもたらした。

マクシミリアン2世はこの和議を遵守し、国内の信仰の自由を比較的広く認めた。オスマン帝国との戦争協力を条件に、プロテスタントの存在を黙認することさえあった。

しかし、その寛容はすべてを解決したわけではない。カルヴァン派や再洗礼派など急進派は排除され、彼らの不満は地下で膨れ続けていた。

寛容は表面的な安定を与えたが、対立の火種は消えなかったのである。

ハンガリーとトランシルヴァニア――「寛容」が通じぬ地

彼の統治が「平穏」と評価される一方で、ハンガリーやトランシルヴァニアは別だった。

ハンガリーでは、現地に定住しないハプスブルク君主への不満が募り、貴族の反発が続いた。さらにトランシルヴァニアではカルヴァン派・ルター派・カトリック・ユニテリアンが共存する特殊な宗教体制が形成され、独自の自治意識が強まった。

怒る民衆の画像

マクシミリアンの「寛容」政策も、こうした複雑な宗教・民族問題の前では限界があった。ここで芽吹いた不満は後世の「反ハプスブルク運動」へとつながっていく。

ポーランド王位をめぐる野望

内政では妥協を重ねた皇帝にも、実は野心があった。

1572年、ヤギェウォ朝が断絶しポーランド王位が空位となると、マクシミリアンは二度にわたり選出を目指した。しかしポーランドの貴族(シュラフタ)は彼を「外からの支配」と見なし、選挙王政の原則を守るため拒絶した。

やがて武力介入の構想さえ生まれるが、皇帝自身の病により計画は頓挫。結局、彼の野望は叶わなかった。



芸術と文化の後援者

政治的には中庸に徹したマクシミリアンだが、文化面では積極的な役割を果たした。

彼の治世にはルネサンス文化がウィーンやプラハに広がり、芸術や学術の保護者として名を残した。これは後のルドルフ2世のプラハ宮廷文化へとつながり、ハプスブルク家を「芸術のパトロン」とする伝統を形づくった。

宗教対立に揺れる中で、彼は文化と寛容の火を絶やさぬよう努めた皇帝だったのである。

迷える皇帝の最期

1576年、マクシミリアン2世は病に倒れ、49歳で世を去った。

その臨終の床で、彼は「終油の秘跡」を拒否する。カトリック皇帝としては禁忌に近い行為だったが、それは最後まで「どちらにも偏らぬ」姿勢を崩さなかったことを示す象徴的な出来事だった。

彼は信仰を捨てたのではない。むしろ「宗派を超えた信仰」を模索し、最後まで葛藤し続けた皇帝だった。



まとめ

マクシミリアン2世の治世は、流血や大きな戦争を回避した点で「成功」ともいえる。だが彼の寛容は、帝国を永続的に救うことはできなかった。

彼は宗教戦争の到来を止めることはできず、死から数十年後、帝国は三十年戦争という未曾有の大戦へと突き進む。それでも、血を流すよりも言葉を、弾圧よりも共存を選ぼうとした皇帝がいたことは、歴史にとって小さくない意味を持つ。

寛容は無力なのか、それとも最後の希望なのか」――その問いは、今もなお私たちの前に残されている。

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・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
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・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
参考文献
  • Österreichische Nationalbibliothek, Ambraser Sammlung(アンブラス城収蔵品カタログ)

  • 大使報告書(特にヴェネツィア大使の報告、1570年代)

  • 岩崎周一『ハプスブルク帝国』講談社現代新書

  • Brigitte Hamann, Die Habsburger. Ein biographisches Lexikon, Wien, 1988

  • Heinrich Lutz, Maximilian II. in: Neue Deutsche Biographie (NDB)

  • Paula Sutter Fichtner, Emperor Maximilian II, Yale University Press, 2001

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