ウィーンの朝は冷たかった。1919年9月10日、かつて帝国の栄光が響き渡ったホーフブルク宮殿には、もはや誰の旗も掲げられていなかった。
その日、オーストリア共和国は「サン=ジェルマン条約」に署名する。
だが、それは“敗戦の同意”ではなく、帝国の葬送を意味していた。武器ではなく、条文と印章で切り取られたのは──650年のハプスブルク支配であった。
この記事のポイント
- カール1世退位後、「オーストリア」は小国として講和を強いられた
- サンジェルマン条約で、オーストリアの遺産と領土は各国に分割された
- 新生オーストリア共和国は合邦と軍備を禁じられ出発した
サン=ジェルマン条約とは何か?
(右図がサンジェルマン条約)
この条約は、第一次世界大戦の敗戦国オーストリアに対して課された、戦後処理の一環である。だが、その実態は、ハプスブルク帝国の清算と、新たな欧州秩序の布告だった。
帝国はもはや存在していない。
すでに各地でチェコスロヴァキア、ユーゴスラヴィア、ハンガリーなどの「継承国家」が誕生し、帝国の地図は霧散していた。
それでもなお、条文は“国家の死体”に対して執拗だった。
消滅した国家、交渉できぬ帝国
オレンジ色の領土が、旧オーストリア=ハンガリー帝国である。
第一次世界大戦は、ドイツ、オスマン帝国、ブルガリア、そしてハプスブルク帝国の敗北で幕を閉じた。しかし、1919年1月に開かれたパリ講和会議に、「ハプスブルク帝国の代表」はいなかった。
なぜなら、すでに帝国そのものが解体し、各地にはチェコスロヴァキアやユーゴスラヴィアなどの「継承国家」が誕生していたからである。
帝国の法的継承者とみなされたのは「ドイツ・オーストリア共和国」。ドイツ語を話すオーストリア人による小国家である。
この国が、サンジェルマン条約の交渉当事者とされた。
存在しない国の「講和」
条約の交渉当事者は、「ドイツ=オーストリア共和国」とされた。
これはオーストリア人の多くが望んだ「ドイツとの合邦」を念頭に置いた名称だったが、連合国はこれすら許さなかった。
条約はこう命じた。
- 「ドイツ・オーストリア」という国名を放棄せよ
- ドイツとの合併を禁ず
- 徴兵制を廃止せよ、軍隊は3万人以下とせよ
-
航空戦力の保有を禁ず
しかも、「戦争責任」を公式に認めさせられた。帝国は消えたが、その罪だけが新生国家の肩に乗せられたのだ。
領土は紙で裂かれる
最大の打撃は、領土の分断であった。
ハプスブルク帝国の中核をなしていたオーストリアは、自らの身体を大鉈で割かれるような形で、周辺国へと領地を明け渡していく。とりわけ象徴的なのは以下の地域である:
- ドイツ語を話すズデーテン地方(ボヘミア・モラヴィア)はチェコスロヴァキアへ
- 南チロルとトレンティーノはイタリアへ
- ガリツィア地方はポーランドへ
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ダルマチアやクライン地方はユーゴスラヴィアへ
これにより、オーストリア国民の三分の一が“望まぬ国家”の中に取り残された。
「昨日まで我が家だったものが、今日から“外国”になる」。それは、地図の上だけでなく、パンを焼き、祈りを捧げる人々の日常をも破壊した。
国宝か、戦利品か──帝国遺産の争奪戦
サン=ジェルマン条約には、もうひとつ重要な条項があった。それは、ハプスブルク帝国が保有していた「文化財・文書・資産」の分配である。
- 王冠、勲章、絵画、歴史文書、図書館蔵書──
-
領土を手に入れた各国が、それぞれの「正統性」の証明として、それらを要求した。
ウィーンの美術史博物館は、絵画を梱包し、鉄道で出荷する羽目になった。
「栄光の遺産」が、書類一枚で戦利品と化す。これはもはや、「印章と記名による見えない戦争」であった。
カール1世の沈黙
当時、かつての皇帝カール1世はスイスにいた。
退位を拒みつつも、事実上その立場を失った彼は、和平を結ぶ力も国も持たなかった。
彼がこの条約の報せを聞いたとき、言葉はなかったという。最後の皇帝の口から、「帝国の名」は、もはや出ることはなかった。
一方、唯一の「勝利」もあった。南ケルンテン地方では、住民投票が実施された。
スロヴェニア人が多数を占めていたにもかかわらず、投票結果はオーストリア残留。これは、「民族」という枠を超えて、帝国文化への帰属意識が根強かったことを示す。
だが、それは極めて例外的なケースであった。
まとめ
サン=ジェルマン条約は、単なる戦後処理の文書ではない。
それは、ハプスブルク帝国という「過去の亡霊」に突きつけられた死の診断書であり、同時に、新たなヨーロッパ秩序の始まりを告げる宣言でもあった。
武力で築かれた帝国は、最後にはペンとスタンプで解体された。それは血の流れない戦争、けれども深い傷を残す「見えない戦争」であった。
そして──この帝国の亡霊を、未来のヨーロッパ統合へと受け継ごうとした者がいた。名はオットー・フォン・ハプスブルク。かつて最後の皇太子と呼ばれた男である。
さらに詳しく:
📖 【ハプスブルク家のその後】一族の行方、巨大帝国の末裔たちは今
📖 トリアノン条約とは|地図の線が奪ったものと、帰れぬ故郷
参考文献
- 馬場優『ハプスブルク帝国—最後の皇帝と民族の解放』東京大学出版会
- Treaty of Saint-Germain (1919)
- 中野京子『ハプスブルク家の人びと』文藝春秋
- Österreichisches Staatsarchiv
- World War I Document Archive(Brigham Young University 提供)
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
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