1990年6月28日、ボヘミアの古城に陽光が射し込む。祭壇の前に立つのは帝位継承者フランツ・フェルディナント、その隣で白い手袋を握り締めるのは女官上がりのゾフィー・ホテク。
(ゾフィーの肖像画)
祝福の鐘が鳴るたび、彼女の瞳には恐れよりも燃えるような決意が宿った――ハプスブルク宮廷の序列を裂いてでも、愛を貫く覚悟である。
この記事のポイント
- フランツ・フェルディナントが惚れたのは宮女あがりの女性、ゾフィー
- 皇帝は貴賤結婚を認めるも、宮廷での序列は一番下となり何度も苦水を飲むこととなった
- サライェヴォ暗殺で夫婦は絶命、死後も宗家の墓に葬られることはなかった
幼少期――ボヘミアの風と宮廷の影
ゾフィーは1868年、ボヘミアの古い家に生まれる。
伯爵とはいえ家計は苦しく、質素な暮らしが続く。父は「高い身分にひれ伏すな」と教え、少女は本と縫い物で心を鍛えた。
18歳でウィーンのプレスブルク城に女官として入り、金と階級の冷たい空気を身にしみて知った。
腕時計が告げた恋
1894年、プラハ総督府の舞踏会。
軍服姿のフランツ・フェルディナントとゾフィーの視線が重なる。7年後、テニスコートに置き忘れた大公の腕時計が事件を起こす。裏ぶたの小さな写真が王女ではなくゾフィーだったのだ。
館の主イザベラ大公妃は怒り、恋は宮廷中の噂となった。
放棄宣言――貴賤結婚の代価
皇帝フランツ・ヨーゼフは甥を呼び、「皇位か結婚か」と迫る。
大公は両方を求め、条件として「子どもに皇位継承の権利を求めない」放棄宣言に署名した。ゾフィーは侯爵夫人に格下げされ、行列では最年少の王女の後ろを歩き、劇場でも夫と別席。
だが彼女はうつむかず、孤児院を三倍に広げ、刺しゅう工房で農家の娘を雇った。「善意は壁の外で伸びる」と笑い、差別を行動で打ちこわした。
見えない王冠
侍従長モンテヌオーヴォは祝典の名簿からゾフィーを消し、式場の入り口を閉ざした。
だが彼女は私財で天然痘ワクチンを買い、兵士の家族へ薬を届けた。寄付台帳には赤インクで「苦しむ者の所へ」と書かれている。
屈辱の席次表を破りたい衝動を押さえ、彼女は「人の心を取れば冠は要らぬ」と夫にささやいたという。
ボスニア行き――死を呼ぶ公式訪問
1914年6月、サライェヴォ (サラエボ) での軍事式典。
皇帝は初めてゾフィーを公の場に同席させた。二人は別々の列車で現地入りするが、予定外の進路変更のすきにセルビア青年プリンチプの銃弾が放たれる。
(サラエボ事件)
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