自由か規律か【ゾフィーとエリザベート、帝国をめぐる嫁姑戦争】

輝く金髪に自由を愛する眼差し──それは皇后の冠よりも、詩人の花冠がふさわしい少女だった。だがウィーン宮廷は慈愛ではなく統制で成り立っている。

ゾフィー (ゾフィー大公妃 1866年撮影)

ゾフィー・フォン・バイエルンは、帝国のために、あの娘を“正す”ことを決意した。

ゾフィーという女──帝国の母として

ゾフィー・フォン・バイエルン。名門ヴィッテルスバッハ家に生まれ、オーストリア大公フランツ・カールと結婚するも、その夫は無気力で野心に欠けていた。

ならば、と彼女は決めた。自らが皇帝を育て上げようと。フランツ・ヨーゼフ。わが子にすべての賭けを託した。

彼女の情熱は、宮廷の女主人としての役割を超えていた。戦争、疫病、革命……帝国を取り巻く不安定な情勢の中で、ゾフィーは秩序と礼節を貫くことで国の屋台骨を支えた。

彼女の敬虔さと規律こそが、王権の正当性を保つ最後の防波堤だったのだ。だが、その規律はやがて、愛する者さえ押しつぶしていく。

皇妃の座を奪った少女

1853年、フランツ・ヨーゼフが心奪われたのは、ゾフィーが用意した花嫁──姪のヘレーネではなく、妹のエリザベートだった。

ポッセンホーフェン城のエリザベートの騎馬肖像画、15歳(1853年)(15歳のエリザベート)

野に咲くような自然な美しさ、型にはまらぬ言動。ゾフィーは内心で動揺した。

「こんな娘に、帝国を任せてよいのか?」

だが息子の心は頑として動かず、宮廷の力学もまた彼に味方した。16歳で嫁いできたシシィ。ゾフィーは彼女を、まずは“教育”しなければならなかった。

始まる支配──姑としての使命

ゾフィーは、宮廷の掟と伝統に沿ってシシィを指導しようとした。だが、それは教育という名の支配だった。

敬称は「Sie」、決して名前では呼ばない。起床時間から食事の内容、身に着けるドレスまで、すべてが管理された。

とりわけ激しかったのが、子どもをめぐる戦いである。

長女ゾフィーは、祖母の名を与えられたにもかかわらず、祖母自身の監督下で育てられた。次女ギーゼラも同様。そして皇太子ルードルフ。

エリザベートの胸に一度抱かれただけで、すぐに離された。ゾフィーは「それが宮廷のやり方」と信じていた。だが、シシィにはそれが“奪われた”としか映らなかった。

反抗する花嫁──自由への逃避

ゾフィーの意図は「矯正」だった。だが、エリザベートは矯正されなかった。

代わりに彼女は、拒絶という手段を選んだ。病と称してウィーンを離れ、マデイラへ。以後、療養と称する放浪の旅が始まる。

ゾフィーにしてみれば、それは「職務放棄」でしかなかった。皇妃とは、帝国に仕える義務を負った存在。だがシシィは、王冠よりも“自由”を選んだ。

ゾフィーは、もはやあの娘を皇后とは認めていなかった。

帝国のためか、女としての意地か

世間では「姑の意地」と笑う者もいた。だが、ゾフィーにとってそれは私情ではない。帝国を守る責任、そして何よりフランツ・ヨーゼフを守る母としての使命であった。

とはいえ、彼女の胸中には葛藤もあった。

シシィが美しくあることに執着していたのは知っている。だがゾフィー自身もまた、かつては皇太子妃として注目された存在だった。

もしかするとその“輝き”への嫉妬──それが、彼女の態度を一層厳しいものにしていたのかもしれない。

決裂と沈黙、そして継承される影

1861年撮影のオーストリア皇帝一家、ゾフィー大公妃は中央に座っている (1861年に撮影された写真)

時が流れても、両者の溝が埋まることはなかった。

1867年、二重帝国成立に際してシシィがハンガリー王妃として戴冠したとき、ゾフィーは公には祝意を述べた。だが私的には「帝国の心が裂かれた」と嘆いたとも伝えられる。

やがてゾフィーは老い、宮廷の第一線を退く。フランツ・ヨーゼフもまた、妻との心の距離を埋めることなく老境を迎える。

そしてルードルフの死。

ゾフィーはその報を聞くことなく、前年に息を引き取っていた。

まとめ

「正しさ」は誰のためにあるのか

それは、フランツ・ヨーゼフ自身の胸にも刻まれていく。母ゾフィーの教えに従い、国家に尽くし続けた皇帝──

だが、妻との溝を埋められず、子を失い、時代の変化に取り残された孤独な君主。その生涯こそが、「規律」の終着点であり、帝国の宿命そのものであった。

ゾフィーとエリザベート、帝国を支えるための「規律」と、個人を救うための「自由」。どちらが正しく、どちらが間違っていたかは、今となっては誰にも判断できない。

だがひとつ確かなのは、二人の葛藤が、ウィーン宮廷に深い影を落とし、帝国の未来を形作っていったということである。

・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
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・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
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さらに詳しく:
📖 エリザベートという呪い、“シシィ”と呼ばれた美の囚人
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
📖 フランツ・ヨーゼフ1世|ハプスブルク最後の栄光、その代償は
参考文献
  • Brigitte Hamann, Elisabeth: Kaiserin wider Willen, Piper Verlag, 1992.

  • Katrin Unterreiner, Sisi. Mythos und Wahrheit, Pichler Verlag, 2006.

  • Egghard, Heinz Noflatscher (Hrsg.), Kaiserinnen: Die Frauen der Habsburger, Böhlau Verlag, 2010.

  • 一次資料:オーストリア国家公文書館蔵/ゾフィー書簡集より

  • ハプスブルク家の女たち (講談社現代新書 1151) | 江村 洋 
・Kamen, Henry. Philip IV of Spain: A Life. Yale University Press, 1997.
・Elliott, J. H. The Count-Duke of Olivares: The Statesman in an Age of Decline. Yale University Press, 1986.
・Parker, Geoffrey. The Grand Strategy of Philip IV: The Failure of Spain, 1621-1665. Yale University Press, 2000.
・Brown, Jonathan & Elliott, John H. A Palace for a King: The Buen Retiro and the Court of Philip IV. Yale University Press, 2003.
・Stradling, R. A. Philip IV and the Government of Spain, 1621-1665. Cambridge University Press, 1988.

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