マリア・テレジアは、神聖ローマ皇帝カール6世の長女として生まれ、ハプスブルク家世襲領の全権を相続した女王である。
オーストリア継承戦争と七年戦争という二大戦争を戦い抜きながら、近代国家への礎を築いた。夫フランツ1世の支えと16人の子を育てる母としての顔も併せ持ち、ハプスブルク家の輝かしい再編を成し遂げた。
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マリア・テレジアとは?帝国を支えた“女帝”の素顔と家族の物語▶
基本情報
| 主な称号 | ハンガリー女王 |
| ボヘミア女王 | |
| オーストリア女大公 | |
| ブルゴーニュ女公 | |
| ミラノ女公 | |
| パルマ女公 | |
| ブラバント女公 | |
| リンブルフ女公 | |
| ルクセンブルク女公 | |
| クライン女公 | |
| カタルーニャ女公 | |
| ピアチェンツァ女公 | |
| 出生 | 1717年5月13日(ウィーン) |
| 死去 | 1780年11月29日(ウィーン) |
| 享年 | 63 |
| 治世 |
1619年 – 1637年(実質的な神聖ローマ皇帝として)
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| 伴侶 |
フランツ・シュテファン(神聖ローマ皇帝フランツ1世)
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| 子女 | マリア・エリーザベト |
| マリア・アンナ | |
| マリア・カロリーナ(夭折) | |
| ヨーゼフ2世 | |
| マリア・クリスティーナ | |
| マリア・エリーザベト(修道院長) | |
| カール・ヨーゼフ | |
| マリア・アマーリア | |
| レオポルト2世 | |
| マリア・カロリーナ(ナポリ王妃) | |
| マリア・ヨハンナ・ガブリエーラ | |
| マリア・ヨーゼファ | |
| マリア・カロリーナ(ナポリ王妃) | |
| フェルディナント・カール・アントン | |
| マリア・アントーニア | |
| マクシミリアン・フランツ | |
| 父親 | カール6世(神聖ローマ皇帝) |
| 母親 |
エリーザベト・クリスティーネ・フォン・ブラウンシュヴァイク
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| 前任者 | カール6世(ハプスブルク世襲領) |
| 後継者 | ヨーゼフ2世 |
人物の背景
マリア・テレジアは、カール6世の悲願のもとに制定された「国事詔書」により、男子のいない場合に限って相続を許された特別な女王であった。
(家系図)
愛情深い両親のもと、輝く美貌と知性を兼ね備え、18歳で初恋の相手フランツ・シュテファンと結婚。16人の子をもうけ、政略結婚政策を駆使し、ハプスブルク家の国際的地位を押し上げた。
父帝カール6世の死とともに即位したテレジアは、すぐに「オーストリア継承戦争」に巻き込まれ、さらに七年戦争では宿敵プロイセンとの死闘を繰り広げた。
神聖ローマ皇帝としては即位できなかったが、実質的には帝国の中心として振る舞い、国母としての存在感を示し続けた。
世で起きた主要な出来事
- オーストリア継承戦争(1740〜1748年)
父の死後、女子相続に異議を唱えた諸国と開戦。フリードリヒ2世にシュレージエンを奪われたが、ハプスブルク世襲領と夫の皇帝位を守り抜いた。
- 七年戦争と外交革命(1756〜1763年)
(3枚のペチコート作戦)
カウニッツの助言により仇敵フランスと同盟(外交革命)し、ロシア・フランス・オーストリアの「三枚のペチコート同盟」でプロイセンを包囲。結果は拮抗し、シュレージエンは回復できなかったが、国際的威信を保った。
- 中央集権・軍事制度の改革
ハウクヴィッツによる租税制度整備と行政機構改革。全国宮廷軍事庁の設置、徴兵制の導入、常備軍の組織化。
- 教育・司法・宗教改革
義務教育の導入、一律教科書と地域言語による初等教育の整備。司法制度・医療制度・教会権限の見直しも進行した。
- 政略結婚による外交戦略の展開
子女たちをブルボン家や諸侯に嫁がせ、ヨーロッパ各国と緊密な関係を構築。マリー・アントワネットをフランス王ルイ16世へ嫁がせたことはその象徴。
- 第一次ポーランド分割(1772年)
晩年、ヨーゼフ2世とカウニッツに主導され、ロシア・プロイセンと共にポーランドを分割。良心的な女帝には受け入れ難い決断であり、老いと無力を痛感した瞬間だった。

マリア・テレジアは、激動の戦争と近代国家改革を経て、母として、統治者として、ひとつの時代を築きあげた。神聖ローマ帝国の皇帝ではなかったが、真に「女帝」と呼ぶにふさわしい存在であった。

