「ハプスブルク家」と聞くと、皇帝や王、宮殿、そしてヨーロッパの広大な領土を思い浮かべるかもしれない。
けれど、そんなハプスブルク家にも、はっきりとした「終わり」がやってくる。1918年。第一次世界大戦に敗れたオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊し、600年以上にわたってヨーロッパの歴史に登場してきたハプスブルク家は、帝国を失った。
皇帝はいなくなった。王冠もなくなった。では、そのときハプスブルク家の人々は、どうなったのだろう?……実は、ここからがちょっとおもしろい。
ハプスブルク家は、消えなかった。
帝国を失ったあとも、一族の家系図は続いている。しかも、その先には「最後の皇太子」として生まれ、のちにヨーロッパ統合の政治家となった人物がいる。
さらに、その息子の世代になると、ハプスブルク家の人々は皇帝でも王でもない、現代のヨーロッパ社会を生きる人々になっていく。
今回は、そんな「帝国のその後」を、家系図からたどってみよう。
この記事のポイント
現在の家長は、最後の皇太子となったオットーの長男カール氏 (2026年時点)
まずは、最後の皇帝から
ここで家系図を一度、ぐっと絞ってみる。

この4人をたどると、ハプスブルク家が「皇帝の家」から「現代の一族」へ変わっていく過程が見えてくる。
最後の皇帝、カール1世
カール1世が皇帝になったのは1916年。
フランツ・ヨーゼフ1世が亡くなり、その後を継いだ。ところが、カール1世の時代には、すでに第一次世界大戦が続いていた。
そして1918年、戦争が終わるころには、ハプスブルク家が支配してきた帝国そのものが崩れ始めていた。帝国内のさまざまな民族が独立を求め、チェコスロヴァキアやハンガリーなどが次々と帝国から離れていく。(※ 地図でみるハプスブルク家 支配した領土・国境・版図のすべて )
1918年11月、カール1世はオーストリアの国政への参加を放棄した。そして、その翌日。オーストリア共和国が成立する。
こうして、ハプスブルク家によるオーストリアの統治は終わった。
ただし、カール1世自身は正式に「皇帝を辞めます」と退位したわけではない。このあたりが、のちのハプスブルク家とオーストリア共和国の関係を少しややこしくする。
でも、ここではまず、「1918年、ハプスブルク家は帝国を失った」と覚えておけば十分だ。
皇太子だった息子
カール1世には、オットーという長男がいた。生まれたのは1912年。

最後の皇太子となったオットーを描いた絵 (出典:Wikimedia Commons)
父が皇帝になった1916年には、まだ4歳だった。
つまりオットーは、「皇帝の息子」として生まれ、「皇太子」として育ち、そして幼いうちに、その帝国を失った。ここが、この家系図のおもしろいところである。
もし帝国が続いていたなら、オットーはいつか皇帝になっていたかもしれない。けれど、帝国はなくなった。
オットーが大人になるころには、「皇帝になる」という道そのものが存在しなくなっていた。では、彼はその後、何をしたのだろう?
「ヨーロッパ統合」へ
オットーは、その後の人生を政治家として歩んでいく。
1979年には欧州議会議員となり、1999年まで議員を務めた。そこで彼が関わったのが、ヨーロッパ統合をめぐる政治である。
ここは、ハプスブルク家の「その後」を考えると、かなり興味深いところだ。かつてハプスブルク家は、ヨーロッパの広大な領域を一つの王朝のもとで治めていた。
ところが、その王朝はなくなった。その後、オットーが政治家として関わったのは、王朝によってヨーロッパをまとめることではなく、国と国が協力してヨーロッパをつくっていくという考え方だった。
「帝国を取り戻す」のではなく、「帝国のなくなったヨーロッパで、どうやって人々を結びつけるのか」。オットーの人生をたどると、そんな時代の変化も見えてくる。
でも、簡単には帰れず
ここで、もう一つ意外な話がある。
帝国がなくなったあと、ハプスブルク家の人々が自由にオーストリアへ戻れたわけではなかった。1919年、オーストリアでは「ハプスブルク法」が制定される。
この法律では、旧皇帝の国外退去が定められ、ハプスブルク=ロートリンゲン家のメンバーがオーストリアへ戻るには、君主としての権利を放棄し、共和国への忠誠を表明することなどが条件とされた。
オットーも、1961年にその宣言を行った。ところが、話はそれで終わらない。
オーストリア国内では、この宣言をめぐって政治的な対立が続いた。1963年、行政裁判所がオットーの宣言を認める判断をしたものの、実際にオーストリアへ入国できたのは1966年だった。
つまり、1918年に帝国を失ってから、オットーがオーストリアの土を踏むまで、実に約半世紀かかった。この時間の長さを考えると、ハプスブルク家にとって1918年がどれほど大きな転換点だったのかが分かる。
再び歴史の舞台へ

晩年のオットー氏 写真:© Oliver Mark / CC BY-SA 4.0
オットーの名前がもう一度大きく登場するのが、1989年。
東西冷戦の終わりが近づいていた時代である。8月19日、ハンガリーとオーストリアの国境近くで「パン・ヨーロッパ・ピクニック」が開催された。
オットーはこのイベントの後援者の一人だった。この日、国境が一時的に開かれ、東ドイツから来ていた人々がオーストリア側へ逃れる出来事が起きた。
その後、ハンガリーによる国境開放が進み、東欧の体制変化、そしてベルリンの壁崩壊へとつながっていく。もちろん、これをオットー一人が起こしたと考えるのは正確ではない。
けれど、帝国を失ったハプスブルク家の皇太子が、冷戦終結とヨーロッパ統合の時代に再びヨーロッパ史の一場面に登場したことは、非常に興味深い。
皇帝にはならず
2011年、オットーが亡くなる。もう一度、家系図を見てみよう。

オットーの長男が、カール・フォン・ハプスブルクである。
ここまで来ると、時代はもう完全に現代だ。カール氏は1961年生まれ。つまり、彼が生まれたときには、すでにハプスブルク帝国は存在していなかった。
もちろん、皇帝として育てられたわけでもない。
では、現在のカール氏は何をしているのか。欧州議会議員を務めたほか、国際的な活動や文化財保護に携わってきた。2002年にはUNPO(代表なき国家・民族機構)の事務総長に就任し、その後は文化財保護にも活動の幅を広げている。
つまり、「皇帝の息子の息子」が、皇帝になったわけではない。現代の社会のなかで、自分自身の仕事を持って生きている。
ここまで来ると、1918年の家系図の続きが、ずいぶん違ったものに見えてくる。
ハプスブルク家はいま
では、現在のハプスブルク家はどうなっているのだろう。
ここで注意したいのが、「ハプスブルク家」という言葉である。現在のオーストリアには、皇帝も王もいない。
また、1919年以降、オーストリアでは貴族制度が廃止されている。したがって、現代のハプスブルク家の人々は、かつてのような「オーストリア皇室」として存在しているわけではない。
それでも、家系そのものは続いている。
カールには3人の子どもがおり、さらに次の世代も生まれている。帝国はなくなった。王冠もなくなった。けれど、家系図は続いている。
これが、ハプスブルク家の「その後」を見るときに、一番おもしろいところかもしれない。
まとめ
ハプスブルク家の歴史は、1918年で終わったわけではない。
終わったのは、ハプスブルク家による帝国の支配である。最後の皇帝カール1世。その長男で、最後の皇太子となったオットー。
そして、その長男カール。家系図を一本下へたどるだけで、「皇帝の家」が「現代の一族」へ変わっていく様子が見えてくる。
かつては、結婚によって王国を増やし、家系図を複雑に広げていったハプスブルク家。帝国を失ったあと、その家系図はどうなったのか。
答えは、意外にもシンプルだ。
王朝は終わった。けれど、一族は続いている。そして、ここまで家系図をたどると、今度は別の疑問が浮かんでくる。そもそも、ハプスブルク家はなぜ、これほどまでに「結婚」によって歴史を動かしてきたのだろうか。
その答えを探すと、ハプスブルク家の家系図が、なぜあれほど複雑になったのかが見えてくる。▶︎ 【650年の家系図でたどる】ハプスブルク家の全貌
関連する物語:📖 なぜハプスブルク帝国は滅んだのか?最後の皇后ツィタが語る“崩壊の瞬間”
参考文献
- 菊池良生『神聖ローマ帝国 800年の歴史』講談社現代新書
- 三佐川裕『ドイツ その起源と前史』講談社選書メチエ
- Gordon Brook-Shepherd, Uncrowned Emperor: The Life and Times of Otto von Habsburg, Continuum, 2004
- Official Website of Karl von Habsburg: https://www.karlvonhabsburg.at
- Wikimedia Commons: Otto von Habsburg (写真: Oliver Mark) / Charles of Habsburg-Lorraine (写真: Fgach80)
- カール1世「1918年11月11日の国政参加放棄声明」:Verzichtserklärung Kaiser Karls I. – Bekanntmachung
- ハプスブルク法 §2 Habsburgergesetz, § 2
- オーストリアの貴族制度廃止法:Adelsaufhebungsgesetz
- オーストリア行政裁判所・1963年5月24日判決:1961: Habsburg-Krise
- オットーの欧州議会議員としての記録:
- 1963年・オットーの入国問題:Erkenntnis des Verwaltungsgerichtshofes vom 24. Mai 1963, VwSlg 6035 A/1953
- オットー 写真:© Oliver Mark / CC BY-SA 4.0
出典:oliver-mark.com
※2006年、バイエルン州ペッキングにて撮影 - カール 写真:© Fgach80 / CC BY-SA 4.0
出典:Wikimedia Commons
※2022年3月撮影、カール・ハプスブルク=ロートリンゲン
その他:ハンガリー国立公文書館(Magyar Nemzeti Levéltár):Páneurópai Piknik 1989. augusztus 19.
