【ハプスブルク家のその後】一族の行方、巨大帝国の末裔たちは今

その名に、いまも歴史が宿る。

かつて神聖ローマ皇帝、オーストリア皇帝、スペイン王を世に送り出し、ヨーロッパを650年わたって動かしてきた王朝、ハプスブルク家。その最後の皇帝が退位してから100年以上が経った今も、その末裔たちは静かに生き続けている

(現在の家長 カール氏(写真:Jean-Frédéric、CC0 1.0))

帝国は滅びても、血筋は絶えていない。この記事では、王朝崩壊後の波乱、追放、名誉回復の道のり、そして現在のハプスブルク家について紹介する。

この記事のポイント
  • 1919年、ハプスブルク家は特権を奪われ、国外追放となる
  • 1961年に王位請求権を放棄、1963年には財産の一部返還が認められる
  • 2025年、現在の家長は、最後の皇太子オットーの長男カール・ハプスブルク氏

追放、沈黙、帝国なき王家

かつて神聖ローマ帝国の玉座にあり、オーストリアを中欧の覇者に押し上げ、スペイン帝国を“太陽の沈まぬ国”へと導いたハプスブルク家。

ヨーロッパの版図を650年にわたり動かしたその王朝も、ついに終わりを迎える。

1918年、第一次世界大戦の終結とともに帝国は崩壊。最後の皇帝が退位し、ハプスブルク家はすべてを失った。だがその「最後」とは、果たして終焉だったのか。

冠を失ってから100年余。王座のないハプスブルク家は、誰にも気づかれぬように静かに生き延び、やがてヨーロッパ統合の時代に、新たな使命を背負って舞台へと姿を現す──。

王太子の旅路

1916年、カール1世の即位にともない、6歳の少年が皇太子となった。名は、オットー・フォン・ハプスブルク。

帝冠を戴く父の横で、彼もまたハンガリー王としての戴冠式へと参列した。しかし、栄光の時間はあまりに短かった。

1918年、帝国は敗戦とともに崩壊。ハプスブルク家はすべての特権を剥奪され、国外追放となる。幼いオットーは、一夜にして「皇太子」から「流浪の子」へと転落した。

その後、オーストリア共和国は1919年に「ハプスブルク法」を制定。称号の使用、国土への再入国、財産の保持すら禁止され、ハプスブルク家は「名を名乗ることすら許されぬ」存在となった。

スイス亡命後のカール1世一家 (スイス亡命後のカール1世一家)

オットー・フォン・ハプスブルク

──にもかかわらず、オットーは沈黙しなかった。

亡命先のスイスやアメリカで、オットーは自由主義と民主主義を掲げ、ヨーロッパの未来を語った。第二次世界大戦下、ルーズベルトやチャーチルと接触し、ナチスの脅威に対抗するための外交活動を展開。

戦後は欧州議会議員として政治の最前線に立ち、1989年にはオーストリアとハンガリーの国境を越えて“鉄のカーテン”を象徴的に開けてみせた。

その瞬間、東欧の解放と冷戦終結の序章が始まった。かつて皇帝の血を引きながら、彼は剣ではなく言葉をもって戦ったのである。

名を捨てて国に帰る

1961年、オットーは正式に王位請求権を放棄した。

これにより、彼の祖国オーストリアは1963年に財産の一部返還と入国を認めた。だがそれは、かつてのような“帰還”ではなかった。

彼らは王族としてではなく、“無位の市民”として国に戻ったのだ。

もはや「皇太子」ではなく、「ミスター・オットー・ハプスブルク」。その姿には哀愁もあったが、同時に気高さもあった。

かつて玉座にあった一族が、名誉と伝統を背負いながらも、現代のルールを受け入れて生きる──それは新たな“君主像”のあり方を体現していたのかもしれない。

晩年のオットー氏 (晩年のオットー氏  写真:© Oliver Mark / CC BY-SA 4.0
出典:Wikimedia Commons)

現在の家長、カール・ハプスブルク

その系譜は、いまも続いている。

2025年現在、ハプスブルク家の家長を務めるのは、オットーの長男カール・ハプスブルク=ロートリンゲン氏。1950年代に生まれた彼は、欧州議会議員として活躍したほか、文化遺産の保護にも尽力。

(現在の家長 カール氏(写真:Jean-Frédéric、CC0 1.0))

2002年には国連非加盟民族機構(UNPO)の議長に就任している。

“皇帝”ではなく、“語り手”として歴史を未来へつなぐ──それが彼の選んだ道であった。

その姿勢は現代的で、テレビ番組の司会もこなす一方、国際フォーラムでは毅然としたスピーチを披露。血統の威光に頼らず、自らの行動で「ハプスブルク」の名を体現している。

なお現在のオーストリアでは貴族称号の使用が法的に禁じられており、「オーストリア大公」や「殿下」といった呼称は公式には認められていない。そのため、彼も“カール・ハプスブルク”という一市民の名で活動している。

冠なき継承者たち

現代のハプスブルク家は、もはや王冠を求めない。

家長カール氏の子どもたちは、それぞれ実業界や芸術分野に身を置き、市民としての人生を歩んでいる。王政復古を訴えるでもなく、政治に干渉することもない。ただ、歴史と名を静かに守りながら。

それでもなお、「ハプスブルク」という姓は、ヨーロッパの多くの人々にとって、尊敬と好奇心を呼び起こす存在であり続けている。

王朝は終わった。だが、その物語は続いているのだ。

まとめ

ハプスブルク家の歴史は、1273年にルドルフ1世が即位したことに始まり、1918年の帝国崩壊で幕を閉じた。

約650年にわたりヨーロッパの運命を握ってきた王朝は、今や国家の外で“名の重み”だけを手に生きている。帝国は滅びても、血筋は絶えない。

王冠は消えても、その名にはいまも歴史が宿る。

さらに詳しく:
📖 ハプスブルク家の家系図でたどる、650年の王朝史
📖 第一次世界大戦とハプスブルク帝国の終焉|民族の叫びと帝国の崩壊
📖 ハプスブルク家ってなに?初心者のためのQ&A10選

参考文献
  • 菊池良生『神聖ローマ帝国 800年の歴史』講談社現代新書
  • 三佐川裕『ドイツ その起源と前史』講談社選書メチエ
  • Gordon Brook-Shepherd, Uncrowned Emperor: The Life and Times of Otto von Habsburg, Continuum, 2004
  • Official Website of Karl von Habsburg: https://www.karlvonhabsburg.at
  • Wikimedia Commons: Otto von Habsburg (写真: Oliver Mark) / Charles of Habsburg-Lorraine (写真: Fgach80)
  • オットー 写真:© Oliver Mark / CC BY-SA 4.0
    出典:oliver-mark.com
    ※2006年、バイエルン州ペッキングにて撮影
  • カール 写真:© Fgach80 / CC BY-SA 4.0
    出典:Wikimedia Commons
    ※2022年3月撮影、カール・ハプスブルク=ロートリンゲン

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